危機の知は知の危機をも招来する


ドアーを開くと同時に、爆音にも近い震動が儂の耳に飛び込んできた。
驚きというより、反射的にドアーを閉める。
今の、音は、確か…耳慣れた音楽。
喧しく忙しく、頭の中を掻き回される様な音楽。
以前に一度だけ聴いた事が有ったが、儂の趣味ではなかった。
そうだ、あの時もここで聴いたのだ。

ハチャトゥリアンの「剣の舞」。

全く、セルバンテスのヤツ、あれほど儂がこの音楽は良い物では無いと言ったのに、性懲りもなく聴いているのか。
まあ、確かに?
人が何を聴こうが、人の勝手だ。
しかし、その音楽を聴いていたセルバンテス自身が、
「あまりいい物ではないね」と、のたまわっていたのを儂は覚えているぞ。
いい物ではないと言いながら、何故聴くのだ。
理解できんぞ。
まぁ、理解出来んのは今に始まったことではないが…

ドアーノブに手を置いて、ゆっくりとひねってみる。
かすかに開いた扉からは、何も漏れて来ず、少々安心してそれを引いた。
「やー」
「うわっ!」
目前セ ル バ ン テス!
気配に気づかなかった儂もどうかと思うが、
そこで待機しているお前もどうかと思うぞ!
「な、なんだ、何故そんな所にいる!」
「いや?君が来たみたいだったから、お迎えに上がっただけだよ?」
ふふん、と誇らしげに顎を上げて見せる。
そのヒゲを掴んで引っ張ってやろうか。
全く…
セルバンテス越しに、部屋の中を見渡すと、
なにやら、ベッドの上に大きな紙切れが広がっているのが見えた。

ここで待機していたと言うことは…門前払いか?

あれだけの音を立てて、あの紙切れを見ていたとすると、
誰かに聞かれたくない音をあの音楽で隠していた可能性がある。
勝手な憶測ではあるが、「音楽」と「紙切れ」との間には、そう言った共通点しか…儂の頭には浮かばないのだ。
もしやも知れん。
底辺で動くような仕事でも仰せ付かっているのか。
それとも、表の仕事での何か、表の中の裏とでも言おうか。
工作に余念がないのか。
いずれにしろ、儂が邪魔になる可能性は高い。
…仕方ない。

じっと儂を見ているセルバンテスから目を逸らして、
余裕が出来たら声でも掛けてくれ、と言ったそぶりで、
手でも振ってここを離れるのが得策だろう。

「ちょっとどこ行くの?」
「む」

…こう、儂がな。
こうやってここを離れようと決めて、それを今からしようとしているのだ。
茶々を入れられては、形がつかんではないか。

「暇なの?」
「む」

だから、儂はな、こう、背を向けてちょっと手をあげてここを離れようとしているのだから、声をかけられたら背を向けられんだろうが。

「暇なら付き合いなよ。また小煩い私の話でも聞いていけばいいじゃない」

スーツの中にふくらみの一つも無く仕舞ってあったネクタイを
グイ、と引かれて、
酔っ払いのような足取りで、部屋の真ん中まで引き込まれて。
なんなんだ。
せっかく儂が気を使ってだな…ああ、タイがグチャグチャではないか!
ったく、結び目がこう、四角できちっとしていないと気持ちが悪くて敵わんのだ!

「また、余計なこと考えてたんだろうけどねェ。本当に本当に君は。本当に。」
「何が本当だ」
「いやいや、別に。本当にねェ。まったく。」
「何が 全く か!」

皆まで言わずに儂を見てはニヤニヤ、儂を見てはニヤニヤ。

チ。
勘繰り違いか。
ベッドに歩を向けて、紙切れをさっさとたたみ始める。

…儂としては、その紙切れが気になるところなのだが。

探りあいは、無し、だ。

興味を持ちすぎてはイカン。

「見る?」
「何ッ!?」

そんなに非・重要的な物だったのかソレは。

また、儂は余計な勘繰りを…。

「ホラ」

と、手渡された紙切れ。
折り目も真新しいその紙切れを、手にとって開いてみる。

そこに大きく広がっていたのは。

世界地図。

「…これは…」

印し一つ、無い、世界地図。

「?」
「座りなよ」
儂に椅子を勧めるから、そこに座って、まじまじとその紙切れを眺める。
どうと言うことは無い。
世界地図だ。
これが、なんなのだ。
儂が其れを見ているのを満足そうに見やると、セルバンテスはそのままクルリと身を返して、壁際へ行く。

また、何か企んでいるな。
まあいい、それに身を委ねるのが又面白いことを儂はそろそろ知り始めている。

かすかに鳴り響き始めた…
其れはだんだんと音量を増して

「…その曲を何故聴く」
「…」

儂の声を無視したのか、聞こえなかったのか。

音量はゆっくりとあげられ、先ほどに近い所まで鳴り響きはじめた。
先ほどとは違い、突然の音ではないからなのか…、それほど煩くは感じない。

セルバンテスは音楽にあわせて舞うかのように身体を翻し、ついと引っ掛けた椅子を引き、
儂の目の前にコトンと座る。
まるで、音楽に操られた人形のように。

「剣の舞」

唇が、そう動いた。

「知っている」
「音楽は思考だよアルベルト」

背もたれに腕をかけて、紙切れ越しに儂を見る。
思考?
音楽が?

それは、どういう…

「聞いてみるかい、私の言葉」
「聞かせてもらおう、お前の言葉。」

嬉しそうにセルバンテスが笑う。
儂はその顔を見て、何故か襟を正す。
こやつの思考は。
儂にとって、そう言った物であるらしい。
舞曲はがなり立てるように続いている。
この音は。
どうやら、今現在においては…酷く大切なもののように…思えた。

剣の舞。
グルジア出身のアルメニア人作曲家、ハチャトゥリアンの最も代表的な舞台組曲、「ガイーヌ」の終幕。

「余計なことはいい」
「うん。確かにこれは少し余計かもね。」
「ふむ」
「じゃあ、この舞曲の発祥が、クルド人の出陣の音楽であると言う知識については?」
「…ほう」

クルド人と言うと、民族自決権を求めて運動を続けていたクルド族のことだ。

「そう。なかなか君も知ってるね?歴史って好きなの?」
「いや、単なる知識だ。興味からのものではない」
「それでいい。私もその程度だよ。」

セルバンテスは笑っている。
楽しそうに。
恐らくこの内容は楽しいものではない。
しかし、セルバンテスは笑っていた。
この笑みの意味が、そのうち、分かる。
其れを儂は今か今かと待つのだ。
なんと。
充足足りえる時間か。

「クルド族の民族自決権の一件は、イランの国内問題だった。知ってるね」
「ああ。」
「この民族運動を、逆手にとって、隣国イラクへの脅威に利用したのがこの時のイラン王、パーレヴィー」

クルド族の間には、特殊なイスラム信仰伝統があった。
其れを援助する形を見せ、王はそのクルド族の力を利用したと言うわけだ。
有形無形の恩を与え…
力だけを、自国の利のために

何かと一瞬重なりかけて。
頭を振る代わりに、目を閉じて眉を寄せた。

「この力をイラクのサッダーム・ホセイン体制を揺さぶる力として利用した」
「…」

その後、皇帝は没する。
積年の恨みを晴らす絶好の機会をそこに見出したイラクは、
1980年。
クルド族の更なる紛争を後押しするように…
イランに攻め込んだのである。

「クルド族の主流派は、フセイン側についたね」
「フセイン側に?」
「そう。恩恵があればそちらにつくのは当然さ。恩恵があれば誰だって…」

…余計なことを言うな

「…勘繰りすぎだよ」
「そうか?」
「…私は、剣の舞の話をしているのだから」

セルバンテスが、目を閉じた。
笑みはまだ消えない。
音楽は高鳴り、酷く胸を圧迫する。
このまま、何も聞こえなくなってしまいそうなのに…
セルバンテスの声は、其れを突き破る細い針のように儂の耳に届く。
儂も其れを塞がない。
剣の舞は、
…出陣の舞曲

「其れがイランイラク戦争。有名だね。そこに突然アメリカが介入する」
「…有名だな。ただの歴史の知識としては、あまりに有名すぎる」
「そう、ただの歴史の一部。しかしその歴史は改竄をされたものではなく真実だと言うのが厄介さ。それでね…。私が面白いと思ったのは」

目を上げたセルバンテスに。
儂はつい身を乗り出した。
聞き逃してはならない。無意味なこの話題の中に、何か意味がある。そろそろそれは分かりかけている。
それを、言わせてはならない。
否、儂はそれを聞きたがっている。
しかし。
言わせては…

「クルド族は、イラン、イラク、両方に渡ってその生息地を分布させていた。よって、クルド族の中でも派が分かれていたと言うことになる。要するに、あれは、クルド同士の内乱が活発化し、それを国が利用したものとも言えるかもね。そして、アメリカは其れに気付いてクルド族を叩いた。無論、簡単に戦争は終結さ。その後クルド族はどんなにか悲劇の民族だったのか、アメリカは大きな声で世界に告げているがね。」

剣の舞がぐるぐると回り
グルグルと踊るクルド人がその輪を急速に狭めて小さくなる

「立役者は、同情するフリで重爆ヘリコプター部隊の脅威をクルド人に見せ付けたのさ。一番分かりやすい方法、身体で知らしめるためにね!そう、それで終わりさ。終わりかと思ったらまだ終わらない、しかし終わりさ。でも終わらない。まるで剣の舞さ。終わったかと思っても終わらない、何度でも何度でも、其れは回転し、」
「セルバンテス!」
「傷付かないのは中心のただ一人だけ!そう、いわば!」
「やめろ!」
「いわば、そう!…」

舞曲が終了し、
音が不意に止む。
其れと同時に、セルバンテスは口をつぐんだ。

「…んー、騒音の後の無音と言うのは、今までに無く静かだねェ」

何事も無かったかのように。
組んだ腕を軽く解いて、儂がぶら下げたままの地図をその手にする。
それを、ゆっくりと畳んで。
畳んで。
捻りあげ、世界をその手で捻じ曲げる。

「…」
「それでねー、そのクルド人の舞曲だったものを世に広めたのがー、」
「アメリカ?」
「あったりぃ。当たり!ビンゴー」

セルバンテスはもう笑っていなかった。
声だけは楽しげに音を発し
顔は無表情に儂を見て
その目は儂だけを見て…

「音楽は思想なのだよ…アルベルト。個人の個人たる思想ではない。歴史があり、国、民族、事実、そして思想がある。」

「…広いな」

「…だから、素晴しいのだよ。音楽は」

「しかしお前はこの曲を」

「いい物ではないと言ったね。覚えてたんだ?っと、失礼な発言だったね。容赦してくれたまえ。いいかい?この音楽は歴史の介入者によって善い様に弄くりまわされている。私は其れをよく思えない。しかし其れが有ったからこそ、ここまで名を上げた舞曲。わからないね。わからない。私には分からない。だからあまり気分がよくない。」



 この曲を聴くとね。
 何かが見えてくるような気がしてね。

 悔しくなるんだ。




 あまりにも、広すぎるんだよ、この曲の背負っている歴史風景が私にとってはね。
 個人の作った曲とは思えないくらいに
 壮大な
 …。





「疲れた…もう何も考えたくない。」
「…お前は考えすぎなんだ」
「…ふふ、君に言われると余程の事みたいに感じるよ」
「広すぎる。広すぎるのだ、お前の思考は。儂が恥ずかしくなるほどにな」

そう。
儂はいつだって。
「お前が世界を見ようとも、儂は儂のことしか見えてはいないのだ…。」

テーブルの上の小さなポットから飴を取り出し、
セルバンテスの口に放り込んでやる。

大人しく其れを受止めて、しばらくもぐもぐと口を動かして。

ふいに、動くのをやめる。

「どうした?」
「…私は君のことばかり見てるよ」
「…っく、突然何かと思えば」
コリ。
飴を噛む音。
噛み砕きはしない。
軽く噛んで、そして離さない。
歯の間で転がして、又それはコロコロと軽い音へと変わる。

レコードの針がブツブツと音を立てている。
耳障りだな。

立ち上がって、グルグルと回転する黒盤を無理に手で抑えた。

ギュ、

と妙な音を発して、回転を止める。無駄に動くそれをこの手で止める。回る、回る、何かが回る、全てが回る。
儂はその黒盤の外側でそれを見ているだけの…傍観者になりたくない。
それをこの手で。
この手で。
知らしめるために。ああ、やはり儂は…

「アルベルト。」
「なんだ?」

見ると、椅子に深くもたれたセルバンテスは、テーブルの上に足を投げ出していて。
指の先に、飴玉を転がして、ペタペタとさせて遊んでいる。
何事も無かったかのように。そうするために必要な行動であるかのように、
何度も。飴を転がして指に貼り付けては剥がす。

「行儀が悪いぞ」
「もうその音楽はかけてはいけないよ」
「…」
「出陣の用意は私には無いから」
「…分かった」

手の平の中で。
それが埃のように崩れ消えていく様を見詰めながら。
一体、この舞曲が今正にどこで鳴り響いているのだろうか、などと、思いが少しだけ馳せて行った。

 私は君のことばかり見ているよ。

セルバンテスの先ほどの言葉が頭に過ぎる。
それだけで、他の思いが消えていくようだった。

足先を正し、
襟を正し。
姿勢を正す。

仰向けに意地を汚しては舌先で飴をつつくセルバンテスへ。

近くへ寄って。
膝を付いた。

儂の差し出した手をとって、口付ける。


「御機嫌よう、私の世界」


そういうと、セルバンテスは、また、笑った。


自分の世界を手中に収めるべく、儂に手を伸ばして。
儂がお前の世界の一部だというならば。
儂は自分を見ていることに誇りを、
誇りを、もてるだろう。


儂がお前の世界の一部だと言うならば、儂は貴様の思想を全て吹き飛ばす。
お前のその澱んだ思考を全て。
自分にそれだけの価値があると、お前が言うならば。儂の中にはその力が巻き起こるのだ。


剣の舞を聞きながら。
歴史を身体で感じながら。
儂を待っていたのだろう。

それを、全て吹き飛ばす嵐を。

嵐を待っていたのだろう?


危機の知は知の危機をも招来する。


お前にそれが迫るのならば。












儂は、そのときこそ。
舞曲をもう一度紐解こう。





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コメント

なんだか、時期的に丁度良すぎる話ですが…(現在2003・3・28)
反戦とか、そう言った内容ではないということをここに明示しておきます。
なんだか、不思議だなと、思ったのです。
剣の舞と言う舞曲。この舞曲の発祥はクルド。
そのクルドを叩いて傷を負わせたのはアメリカ。
しかしこの剣の舞と言う曲を、世の中に作品として知らしめ、音楽の高峰に挙げたのはアメリカ。
なんだかね。
全部、繋がってるんだな、と。

最近の音楽は、個人に向けたものが多くて。
だからこそ、皆が欲しがるものなのだとは思うのですが、
実は交響楽とは、ヨーロッパが発祥ではないようです。
ヨーロッパに持ち込まれたものなのだそうで。
大元をたどれば、どこから、なんてもの、特定できないんでしょうがね。
歴史は常に改竄されてきている。
私たちが歴史の教科書でならっているものは、殆どが伝承、
言い伝え。
文書にして残されているものでさえ、信じがたいものです。
いま、私たちはその歴史になるべき一片を、この目で真実として見ている。
時代時代に、いつも真実を見ていた人間は、存在していた。
音楽
小説
そういった、改竄を加えられないものの根底にこそ、
本物の歴史が隠されている、なーんて、そんなコト。思ってみたりしました。
どうなんでしょうね。

芸術はどんどん分かりやすくなっていきますね。
見る目が落ちれば芸術が落ちる。
芸術が落ちれば見る目が落ちる。
これが繰り返されないことを祈るばかり。

目利き、と言う言葉がありますが。

磨きたいですね。自分の目。真実にも嘘にも沢山触れて、
訳がわからなくなってきたとき、何を自分が選ぶか。

この選ぶ基準が、目なんだろうなぁ。