「どうッてことは無いんですよ」
真っ白な彼はそういって笑った。
笑ったように見えた、といった方が合っているのかもしれない。
彼の顔は、そうとう高い位置にあるらしく、私からは全然見えないのだ。

彼とはデパートの中で出会った。

普段見もしないくせに、珍しく街に出た、ただそれだけの理由で、
壁の奥までぎっしりと下がった服、服、服の列を一つ一つ、カシャンカシャンと音をさせて見て行く。
好きな服なんて無い。
ただ、いつも来ている服は一番のお気に入りだった。
特に、ポケットに手を入れたときの裏地の感触がたまらなく好きで、よくこねくり回していた。
日曜のせいか、客は多い。
マネキンにぶつかったのか、姿見にぶつかったのか、人にぶつかったのか、どうなのかさえも分からないほどに
人、人、人、服、服、服、マネキン、
疲れた男がベンチに座ってタバコに火をつける
歩く人、人、人、
人、人、人、子供、赤い人、青い人、
眼の痛くなるような酷くカメレオンに似た顔の人、
雑誌が歩いているような人、これから生きる人、これから死ぬ人、
ここにいない人、ここにいる人
人、人、人、人、人の群れ。

そんな中、私は、それに目もくれず(認識しているということは、知らないうちに見てはいたのだろうと思う)服、服、服を見る。
赤い服、青い服、カメレオンに似た服、雑誌のような服、
これから生きる服、これから死ぬ服、ここに無い服、ここにある服
服、服、服、服の群れ。

其の隙間から、彼はちょこりと顔を出したのだ。

真っ白な顔と、真っ白な瞳と、真っ白な体に、真っ白な服。
それと、真っ白な長い尻尾。

やけに艶のあるその尻尾だけがやけに目立って、
まず彼を見つけたときに、顔よりも先にそっちに目が行ってしまったくらい。

彼は、私に気づくと、ゆっくりと、まるで英国の紳士のように優雅に会釈をした。

「やあ、どうも。初めてお会いいたしますね」

私は答えなかった。
何故って、私は彼に話しかけられたことよりも、その声がどこから出ているのか、それに気を取られていたからなのである。
真っ白な、恐らく顔に当たる部分。
そこから、小さな赤い舌がチロチロと蛇のように覗く。

ここが、クチかも知れない。

と言う事は、そのもっと奥に喉があって、声帯があって、そこが震えて声は出るはずなのだから、…このあたりから、声が出ているのかもしれない。と、見当をつけた。

そしてその声は、丸くて柔らかいものを連想させた。
がやがやと店内の客の声。私の右を左を後ろを絶え間なく通る。

「ミスター。私の喉がそんなに面白いですか?面白いといっていただけるのなら、私はとても嬉しく思うのですが、然しその面白いという言葉の意味が、おかしいとか、滑稽だと言う意味で使われているのだとしたら、私は心外である、としか言い様がありません。然しミスターは私を滑稽だとは思っていないご様子だとお見受けしました、いえいえ、ご謙遜なさらずに、私はただあなたが面白いと思ってくれるのならそれで構わないのです。」

「面白いよ」

「ああ、あなたの声がはじめて聞けました!面白いといってくださいますか。
果たして、其れはどの程度のものでしょうか?」

うん、と私はそこで悩んだ。
どの程度、さて、どう表現したらいいものなのだろうか。
困った挙句、私は自分の胸ポケットに手を入れて、懐中時計を引っ張り出した。
がやがやと店内の客の声。私の右を左を後ろを絶え間なく通る。

「このくらい、かな」

白い彼に、その懐中時計を開いてみせる。

「嗚呼、なんたる!」

彼は酷く驚いた様子だった。
気を悪くしてしまっただろうか。

「嗚呼、何たる嬉しき言葉!」

彼は柔らかな体を右に左に動かして、その喉で私の懐中時計を擦り付けるように眺めてはため息をつく。

そして私は気がついた。

彼が、一回り大きくなっているような気がしたのだ。

「どうッてことは無いんですよ」
真っ白な彼はそういって笑った。
笑ったように見えた、といった方が合っているのかもしれない。
気がつけば、彼の顔は、そうとう高い位置にあるらしく、私からは全然見えないのだ。がやがやと店内の客の声。私の右を左を後ろを絶え間なく通る。
姿見を引っ張ってきて、その通路にガシャンと置いた。
みな、そこを避けていく。
硝子の破片の中に、私と、白い彼は向き合っているのだった。
その顔は見えないところに行ってしまったけれども。

ただ、尻尾だけは、そこに艶めいて垂れ下がっており、やはり私はついつい其処に目が行ってしまうのだった。
尻尾はとても長く、どこまで続いているのか、予想もつかない。

「どうッてコトは無いんですよ。ミスターお気になさらないでください。私は今日、珍しくそんな気分になったのです。いつもいつも、地面に立っていることがつまらなく思えましてね…ああ、違うのです、ミスターは地に立つことを否定しているわけではないのです」

「大丈夫、分かっているよ。私はここに居たいからいる、君はそこに居たいからいるんだね」

「そう!まさにそうなのです。私はここに居たいから居るのです。そして私が今日、目指そうと思った目標を聞いてはくれませんか?」

「いいよ。聞いてあげる。私は今日は暇だからね。」

「私は…今日、私は、空を目指すことにしてみようと、思い立ったのです。何かに感化されているのでは、とお思いですね?ところが、違うのです。私も何時も何かに感化されてきました。テレビで見たことに憧れて、ニュースに心奪われ、嗚呼自分だったらこうしたい、そんな気分で始めたことは一つも達成されませんでした」


白い彼は、だんだんと大きくなり、途中で一瞬、グラリ、と揺れて。

「大丈夫かい?」

「…はぁ。はぁ。大丈夫です。こういうとき、いつもの運動不足がたたりますね」

彼の尻尾はうっすらと汗に湿っていて。
時折、苦しそうにビリビリと其れを震わせていた。
その尻尾が、一瞬、グ、ッとこわばると共に、彼はまたさらに上へとその白い体を伸ばしていく。
体の部分は柔らかそうなのに、尻尾の部分は、物凄く堅そうで。
まるで、蛇の尻尾のようだとも思った。

滑らかな曲線の尻尾は、彼が伸び上がるたびに、強く強く力を込めていて。
その曲線を、右に左に、ジリジリとずらしながらまた彼は伸び上がっていく。
苦しそうな息遣い。
痛みを感じるのか、時折柔らかく見える体が蠕動する様にも見えた。

「……私はね、コレを思い立ったことを悔やんではいないのですよ。ああ、ああ、そうだ、私の体にはどうぞ触れないでください。どうぞ触れないでください。触れてしまったら、私は…」

「大丈夫。私は触れないよ、私はただマネキンのようにここに立って、君を見ているから。真っ白で柔らかそうな君の体をみていることは今日は凄く気持ちがよくて楽しいんだ。」

「なんたる!」

ビクンビクン、とうねりあがった尻尾が地面をビタビタと叩く。
彼は酷く喜んでいるようで、その喜びが彼をさらに空へと押し上げた。
どんどん、どんどん彼は空に向かっていく。
私の言葉から、何かを得たように、苦しげだった動作も次第に和らぎ落ち着き、勢いを増して伸びていくのだった。

「なんたる幸せ!嗚呼、今日あなたに出会えたことを嬉しく思いますミスター。私が空を目指そうと思ったのは、実はあなたを見たからなのです。あなたの中に空は見えませんでした、あなたの目にも空はありませんでした。なのに私は空を目指そうと思ったのです。ああ、そうだ、私はあなたの名前を知らない…ミスター。あなたの名前、私に教えてはくれませんか」

「そうだね。そうだな、君が教えてくれたら、教えてあげるよ」

白い彼は、一旦そこで動きを止めたようだった
私を、伺うように上から覗き込んでいた。
怒ったのかしら。
それとも、何かが気になるのかしら。

私が名前を聞いたのが気に入らなかったのだろうか。

「それはいい考えですミスター。私の名前を聞いてくれるというのですか」

彼は、震える声でそういった。

「…聞いても、いいのかい?」
「無論ですとも!!!」

彼は空高く咆哮して

その声はとても遠く…

「なんだい、なんて言ったんだい?!」

白く、嗚呼、そうだ、なにかに似ているとずっと思っていたんだ。
そう、彼はまるでヨーグルトのようなのだ。
真っ白で不透明で柔らかく伸び上がり

「私の名前は…!」

「聞いているよ、私は此処で聞いているよ!」

「ところで、私の尻尾はどうなっていますか!」

声に、すぐさま私は床を確認した。

彼の尻尾。

尻尾。どこまで続いている?

「ちょっと待ってて!」

それだけ言って、私は彼に触れないように注意深く、
洋服の下を覗き込んだ。

先は、全然見えない。

「見えないよ、尻尾の先は全然見えない!」

「有難う御座います、そうですか、そうですか。
嗚呼、空が見えます、空が。空が!」

「気持ちいいかい!?」

「…最高です!」

彼は。
気持ちいいとは言わなかった。
私には、まだその言葉の意味が判らない。

「ねェ、名前を教えてよ!」

「私は、私の名前は…セルバンテス!」

「…空が、…見えるのかい」

私の言葉に返答する彼の声はもう聞こえなくて。
私は、慌てて上を見上げた。

どこまでも続く天井の向こうに、小さく空が見えて、
その向こうにずっと彼は続いていた。
彼は、
彼は。

とうとう

空に、到達したのだ。












それ以降、セルバンテスに会うことはなかった。
洋服屋は、様変わりし、雑貨屋に変っていた。
雑貨に埋もれて、一つ一つを取り分けてずらしてみても、
彼の姿はなかった。
私は、いつしか、彼に出会うだろうか。
いつしか。

人の群れも様変わりを遂げた。

私も何か変ったのだろうか。








外に出て、空を見上げると、それは信じられないほど広く。








私の頭上に、高々とその姿を掲げているのだった。








いつか、君に会って告げたい。

私の名前は








セルバンテス。