部屋に入るなり男は、まず腕時計を外した。
そうしてから、ちらと部屋の掛け時計に目を走らせる。
真白な壁に毒々しい赤のカーテン。
それはきっちりと閉ざされていて、外からの闇は微々たる影もその絨毯に染み入らなかった。
大理石で作られたテーブルの上に置かれた腕時計は金色に鋭く光っていて、
しかし男はそんなことにはさして興味の一つも抱いていないようだった。
彼はそのままスーツの上に羽織っていたマントの様なクフィーヤと呼ばれる民族衣装を脱ぎ、その腕時計の上に無造作に放り投げる。
コキン、という音がした。男が軽く首を鳴らしたのだ。
肩に置いた手を、そのまま胸ポケットへ走らせ、そこから紙の束を取り出す。
それはどうやら、名刺らしかった。
印刷されている文字は真っ白な紙の上にインクを綺麗に並ばせ、名前の部分だけはどうやら手書きを印刷したものらしく見えた。
男はそうして一枚一枚と自分の身につけているものを脱いでは放り投げ脱いでは放り投げ、瞬く間に全裸になってしまう。

開放感に酔いしれる唇を、その乾いた部分を舌で湿らせて。

ふぅ、と小さいため息。

「そう、私は誰でもあって誰でもない、今この時、私は、誰でも、ない。」




裸足が絨毯を踏み、向かったのは浴室。
白い扉を開くと、鏡が此方を向いていた。

「邪魔」

そう呟いただけで、鏡は粉々にわれ落ちた。
欠片は溶けて消え、男の裸足を傷つけることは無かった。

ゆっくり。非常にスローな動きで洗面所の蛇口を捻る。

ゆっくり。
そう、ゆっくり。


そう


「私の動きが微塵さえもこの世に残らぬように」
ゆっくりと、捻ると其処からは水が流れ始める。
ゆっくりと、細く水が流れ始め、指先を柔らかく撫ぜはじめるのだ。
それは非常に心地よく、このまま自分も溶けて流れてもいいとさえ思えた。
そうして、溶けて流れた私はすべての水の中に溶け込み、人の口から取り込まれ、やがて全世界の人間の身体を侵すだろう。
ああ、そう出来たらこれ以上の快楽があるものか。
どんな女の蜜壷にもかなわぬ、柔らかな人間の内臓器官を汚染し、いやいや、違う、汚染じゃァない、私がこの身体で清拭するのだ。
ゾクゾクとした感触が体中を駆け巡る。

そう、今私は誰でもあって誰でもない。

柔らかな水は私の指先を溶かし、身体を溶かし、骨を溶かし私はこのフロアの上に内臓器官だけとなってゆっくりと垂れ落ちるだろう。
それは何と甘美なことだろうか!




溶ける、指先が
浮き出した真白な骨が溶ける
溶けて流れて私はそのまま排水溝へと流れ
もうすぐもうすぐ君たちを侵食してあげよう、気がつかないうちに誰もが私のものとなる
誰もが…



リィィイィイン







リィィィィイイン




…ち



いつもだ。
いつも私が溶けかけている時に、絶対にアイツは邪魔をしに来る。
私がすべてを侵食するのを防ぐかのように。
無視することだって出来るだろう。受話器を取りに行かなければそれでいいのだ。
しかし、私はそれを無視することが出来ない。
なぜか無視することが出来ないのだ。








男は、(もしそこに鏡があったら酷く歪んだ顔が映っていたであろう)壁を睨み付けると
忌々しげにもう一度舌打ちをした。
すると排水溝からすべてが彼の身体に戻り始め、彼の裸体は完全な人間の身体へと戻ってしまうのだった。
ドアを無造作に開け、いまだ鳴り響く電話機のそばへと絨毯を踏み荒らす。

途中振り返り、スーツの上着を裸体に着込むと、そのままソファーへと沈み込んだ。

鳴り響く電話をしばし見詰め、深いため息のあと、その手は受話器を取り上げた。


「……もしもし」


『貴方はいつも電話に出るのが遅いですね』


「孔明かぁ、なんだい、なにかあったのか?」


『いいえ、特には何も御座いませんよ』


「特には、ねェ、あっはっは、気まぐれだなァ」


気まぐれだなあ。
あっはっは

邪魔…いつも、この男は邪魔。


『なぜか貴方に電話をかける必要があるように思えるときがあるのですよ、私にはね』


「あ、そ、なに?BFサマのご命令か何かかい」


『さぁて、それは…ふふ』


「…言わずもがな?BF様はすべてお見通しだって例の文句はもう言わないのかい」


『ふふふふ』


笑い声を残して、電話は切れた。
耳に付く笑い声を残して電話は切れた。
例の文句は言わなくても言ったも同然だった。そうなのだ。

私は誰でもあって誰にもなれない。

いや、誰でもない。私はセルバンテス以外の誰でも、誰でもないのかもしれない。

脱ぎ捨てた服を引っつかんで投げ捨てた。そんなことは無駄と知りつつも。

いつか、捨てて見せようじゃないか、私はいつか、名前だけの存在となり、侵食を始める。
そう、侵食を始めるのだ。私の名を記憶した彼等の脳内を侵食し、いつか。
いつか、それは…




私は何があっても消えることはないだろう






彼はそう唇だけで呟くと、スーツの上着を脱ぎ、その匂いを鼻腔深く吸い込んだ。






FIN