喪失

馬鹿は、馬鹿だ。
馬鹿につける薬はない。馬鹿は何をやっても馬鹿なのだ。

アルベルトが、やにわにそう言った。

私はそれをいつものことと聞き流そうとしたけれど、
アルベルトの目はそれを許容しなかった。

「いいか。セルバンテス。馬鹿にはなるな。馬鹿には、な」

なんだって突然そんなことを。

「アレだ」

アルベルトが指差す先を見る。
まっすぐに伸びた指先がピンと指す方向には、ただただ長い線路が地平線の果てまでずっと伸びているだけだった。

「わかるな?」

わからないよ

「お前ならわかるはずだ。わからねば儂はその現実の前に滂沱するだろう」

強く激しいその口調に、長く這う線路の先をじっと見る。
草が茫々と生え茂り、砂利の上に只緩やかな線を描いて曲がるカーブ
それに沿うように枕木の上に身を投げ出している線路。

その向こう、いつぞやも見たことのないような古い汽車
黒光りする古い汽車が音も立てずに走り去っていった後の線路。

「あれが、馬鹿なのかい」

「わからんのか」

「わからないね」

「なんと…」

しばし、彼は言葉どおりに滂沱の時を味わっていたようだった。
私の顔を見、そして、眉間によった皺が深くその心持を浮き立たせる。
それは何かしら私に求めていた、それを裏切られたといった風で、
私はなぜか自分が悪いような気になり、もう一度線路の向こうに目を走らせたものだった。
時は過ぎ、私たちは汽車の通らない線路端に腰を下ろして、
音も無く燈った街灯を目の端に映しながら、砂利を見詰めていた。
アルベルトはどうやら、先ほどのショックをまだ引きずっているようで。
私はそれを理解してやれぬ自分が本当に 馬鹿 なのではないかという気にさえなっていた。

しかし、何を「わかれ」と言われたのか、それさえも見当がつかない。
そんなわけで、私にはわかる術(すべ)が無いのだ。




「これから、どうする?アルベルト」

「…」

「さっきの事を根に持っているのなら、君は馬鹿だ」

「そうなのかもしれん」

「なに、突然」

「そうなのかもしれん。馬鹿は馬鹿だ。儂もまた馬鹿なのだ」

「…アルベルト?」


やにわに彼は立ち上がり、線路を踏みつけて空を仰いだ。


「お前には見えたかセルバンテス」

「汽車なら見えたかもよ」

「汽車ではない」

「じゃあ、なにが見えたと私に問うんだい?」

「儂には見えたのだ。儂には」


私の見えなかったものを恐らく見たのであろう彼は、空を高く高く見上げ
そして、その空に向かって天に向かって手の平を突き上げた。


「儂は問う」

「なにに?」

「この全世界と」

「全世界と?」

「お前に問う!」


星空はなぜか灰色に曇っていて、それが私にはあの汽車のせいだとしか思えなかった。
暗闇に目が慣れてみると、逆に何故見えるのかが不思議になってくる。

そういうものだ。





アルベルトの問いかけは、風の音に流されて消えた。






そして、私たちはまた線路端に腰を下ろしてじっとしているのだった。












その静けさを待っていたかのように唄い始める虫の声。






りきりりりりりりりきりりりり






「…」

「…虫だね」

私が声を発すると、その音は少しの間だけ止み、そして思い出したようにまた


りきりりりりりりりいりりりり





「…喧しい」

「そうかい?いい音じゃァない。まさか私はこの世に虫がいるなんてことこんな形で認識すると思ってもいなかったけれどね」

「それだから気に食わんのだ」

「君は、気に入らない事だらけだね」

「お前は気に入らないことは無いのか」

「あるよ」

「あるなら」


りきりりりりり


「喧しい!」


音のする方向へ向けて一発
アルベルトの放つ衝撃の波が草むらをベコリとへこませた。


少し遅れてそれを確認した私は、ため息をつきながら立ち上がる。


「そんな大げさにしなくったって、虫なんてピンセットで一センチも刺せば。」
「ふん」
「君は、小さなものに大きな力を使いすぎる」
「さっきの質問の答えがまだだぞ」
「私が小うるさいからって話題を変えなくたっていいじゃァないか」
「質問をしたのは儂が先だ。先に聞かれたものに答えるのが筋というものであろう」

…ふぅん

「…この線路がどこへ続いているのかが気になるのかい?」

立ったままの私に釣られたのか、それとも見下ろされているのが癪に障るのか、
彼は追うような動きでその腰を持ち上げ、私をまっすぐに見た。
アルベルトは、必ず人と対峙する時に真正面を見せる。
この行動は自分に自信があるものが無意識に行う行動だ。
アルベルトは小細工の出来るような男ではないから、
無意識に私に自信があるところを見せようとしているのだろう。
その自信の源がなんであるのかなんて、まったくの不明瞭なものであるはずなのに。

「気になるのなら、汽車に乗ってみたらどうだい?」

「いや、儂は汽車には乗らん」

「なぜだい?」

「お前が乗らないからだ」

「ほぉ?」

「儂は、お前ほどずるがしこくは無い、しかし、お前が何かを知っていることを知っている」

「私が?」

「そうだ。儂の持つ疑問の答えはいつもお前の中にある」

「私の中に」

「ある。だから儂は汽車には乗らない」

ふぅん。だから、こんなところで油を売っているようにしか見えない私に付き合っているというわけだね。君は。

「まあ、そう言った所だ。お前がここにいるということは、何かがあるのだろう」

「ないかもよ?」

「いや、なにかあるのだ」

「また私も高く見積もられたものだねぇ」

「それだけの価値がある」


悪い、気はしない。
むしろ、誇らしいほどの高揚を覚えるね。


虫の鳴き声は、私たちの会話に臆したのか、その声を潜めていた。


それとも、これから起きることを虫は感じていたのだろうか。


ピンセットで一センチも差せば。


「じゃあ、線路に触ってみないかいアルベルト。」

「うむ。そうしよう」

「私も触ってみよう」

屈み込んで、二人して線路に指を置いた。
冷たい鉄の感触の奥から、ぴりぴりとした振動が伝わってくる。
私たちはしばらくそれを楽しんでいた。
その振動がなんなのか、教えるまでも無かったし、知ろうとする意思の明示も必要なかった。

なぜなら、私たちは汽車に乗らなかったのだから。


私たちは、汽車の行った方向に背を向けて、並んで歩き出した。
ついでに、喧しい虫をピンセットで一センチほど刺して。

ピンセットは、硫酸の中にでも放り込めば、真鍮で出来ているから溶けてしまうだろう。

その場にピンセットを置いていってはいけないのだ。それは双方言わずもがなだった。


「わかったよアルベルト。君はそうも馬鹿ではなさそうだ」

「お前もまたそうであろう」

「まぁね」

背後のカーブの向こう側から赤々とした光が、ほの暗い空を照らしていた。
















〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

コメント

走っていったはずの汽車は、誰もその姿を確認してはおらず
本当に走って行ったのかさえも曖昧で
後に残るのは赤い光と、ピンセットに刺した虫の亡骸