英国紳士の習慣、って知ってるかい?

本を読んでいるフリをしているアルベルトに話しかけた。
当然、本を読んでいる「フリ」をしているのだから、
「煩そうなフリ」をして私を見る。

テーブルに肘を付いたまま、その顔を下から覗き込んで見る。
片眉をク、と上げて「知らん」と無言での返事。
あ、やっぱ知らないんだ。
ふふ、人の知らない物を知ってる時って、なんだか優越感を感じるよね。

そのまま私が覗き込んでいると、私の回答が来ないのに業を煮やしたのか、
また「本を読んでいるフリ」を始める。


なに読んでるの?


咥えた葉巻がクイ、と上に跳ね上がって、
本にそえた指が背表紙をノックした。

カフカ

ふぅん、カフカね。「変身」?
葉巻がもう一度動く。
変身は有名だよね。私も読んだよ。初めて読むの?読み返してるの?
ザムザってさ、見てみたいと思わない?ゴキブリ。人間大の大きな黒光りするゴキブリ。見てみたいと思わない?
真っ暗な部屋に彼はいるんだよね。真っ黒な彼は。家人からも疎ましがられ、最後には…あっと、初めて読んでるの?
アイタ、ちょっと突然肘払わないでよ。顎がカクンッて言ったじゃない。え?喋るな?なんで?

コンコン。

背表紙をノックする指。
わかってるよ、カフカでしょ?

ひょい、と本をはずしたその顔が、私を見て勝ち誇ったように笑う。

何で笑ってるのかよく分からないけど、
ああ、そうだ、英国紳士の習慣の話だったよね。

パタン、と本を閉じたのを皮切りに。
私はアルベルトにレクチャーを始める。
今日は私のお披露目の日。君の講和はその後で。
少しづつ、少しづつ、脳の中身を見せ合っていく。
中身を見終わるのは一体いつなんだろうね。
こうしている間にも、私の脳の中には色々なものが溜まって行くよ。
こごった物を一つ一つ自分で溶いて、言葉にして君に聞かせる。


例えばだよ。
暇な時。そうね、今みたいな。え?暇じゃない?あ、そう。
そんでね。今みたいな時に、どうやって自分を楽しませるか。
猫と遊んでもいい、本と遊んでもいい、今の君みたいに人で遊んでもいい、
遊んでないって、そんな、アハハ。まぁまぁ、本を開かなくてもいいよ、
どうせそれカフカでしょ。
私の遊びに付き合いなさい。
私が話すのはカフカとは関係ないんだけどね、
うん。もちろん。いや、本当だよ?
本は閉じといていいよ、それあんまり参考にならないから

それでね。

何怒ってるの。参考にならないって言ったのは、カフカが駄目って意味じゃないよ。
君にはあまり参考にならないかなと思ったんだよ。
確かに読んでみなくちゃわからないけどさ。
かいつまんで教えてあげようか、カフカの「変身」。
何で怒るの。ああ、そうか、自分で読みたいんだね。
多分途中で
アイタっ
君はすぐそうやって暴力を振るう。

え?ああ、そうか、英国紳士の習慣ね。
君がその言葉を言うたびに、なんだかズキンとくるね。
あはは、こっちの話。
企み?私はいつも企んでるよ、今日に始まったことじゃない。
即座に納得されるのもどうかと思うけどねェ。まあ致し方ないね。

カフカだっけ?あ、違う違う、習慣ね。
猫と遊ぶでしょ、え?もう言った?イイの。順番があるんだから。
風と遊ぶでしょ、順番が違う?イイの。順番なんか関係ないんだから。
ちょっとどこ行くの?トイレ?アイタっ

わかったよ、行ってらっしゃい。
どうせ私の話は長いですよーだ。






アルベルトが席を立ったので、私はその英国紳士の習慣について一人で考えてみることにした。
アルベルトは男性だからね。当然、小用に立ったとすれば、数分で戻ってくるだろうけれども、
私がその数分でなにを考えられるのか、それに挑戦するのも面白いね。

その気になりさえすれば、人はどんなものとでも遊ぶことが出来る。
猫でしょ、犬でしょ、自然でしょ、科学。そして人。
自分と遊ぶことだって出来る。今私がしていることだって、一人遊びの延長線上だね。
英国紳士の習慣。私がまだ幼い頃に翻訳文を読んでいたときに初めてぶち当たった大きな壁。
英国紳士の習慣。
いくら考えてみても、意味が分からなかった。その本は確かに読破したけれども、何度読んでもその表現の部分で戸惑った覚えがあるね。
そこだけはどうしても意味が分からなかった。本は読めても、読みきった気がしなかったね。
アルベルト遅いね。年の所為で出が悪いのかね。そんな年でもないだろうに。
もしかしたら、英国紳士の習慣かな。
人を待たせておいて、英国紳士の習慣、ってのは、ちょっとあれだよね、失礼千万だよね。





暇だなァ。


伏せたままのカフカを手に取ってみる。
表に返してみると、そのページは、ザムザが初めて自分の姿に気づく場面だった。
ザムザは人間で。
ある朝自分がゴキブリになっていることに気づく。

羽虫。

黒光りする羽虫。

…このページ、このまま固まってるね。
アルベルト、このページ読むのに一体どれくらいの時間をかけているんだろう
…違う
そうか

このシーンが

好きなんだ。

そうだろうアルベルト。

おぞましいものに姿を変えた男に…自分を当てはめて楽しんでいるんだろう?

本を伏せなおして。

立ち上がった。







「アルベルト?」

洗面所の扉を開く。

黒い人影。

羽虫?

違う。

アルベルト。

「どうしたの?」



「遊びについて考えていた」
「だからそれは私がこれから話すッて…」
「儂には遊びと言う知識があまりない。だからお前の言うことがわからないかも知れん。」

未知の部分に触れるのは至極楽しいが、逆に抵抗もある、と。

彼は、戸惑った顔で言った。
幼い頃の私みたいに。
翻訳文を読んでは理解できずに戸惑っていた自分みたいに。

ちょろちょろ、と、細い水が洗面台に流れ落ちていく。
落ちる水の真下に、自分の人差し指を差し出したまま、アルベルトは目を閉じた。

よく言うよ

今だって君、遊んでるじゃないか。




赤い瞳が私を見る。



ああ、



と、鮮やかな顔で。




ならば合点がいく。と、蛇口の栓を締めると、私にその指を差し出す。
冷たくなってるじゃないか。
いいんだ、これは儂の遊びなのだから。と。


指を絡めてその体を引き、部屋に戻る。
まぁまぁ、座りなよ。
カフカ、読みたい?
私が音読してあげようか?

「…気づいたのか」
「まね、私も良くやるから」
「…あまり知られたいものではなかったな」
「しかし私は羽虫に侵されてみたいとも思うよ、侵食されるのはなかなか気持ちがよさそうだからね」

高尚な趣味だ、と、笑うから、私もつられて笑った。



















指先を絡めて、優しく撫で摩る。












君の見ている前で。







っはっ…







弾ける前の風船みたいな、この弾力結構好き、なんだよ…








ん、あっ









こうしてみると、やっぱり、肉、だね…中に太い血管が通っていて、その先に栓をされてるみたいな





「流れが堰き止められているような感じか?」

「あ、うん、そんな、感じ、その堰を、外したい、外す為の、…内なる私の暴動」

「外して見せろ…?」

「ん、…ああっ、」

「成る程、これはテロリズムだな」

「あ、あっ、そぉ、決壊しちゃいそう…」





言葉なんかよりもはっきりとした形を見せるのは、私の体。
「英国紳士の習慣」と表された行為に、私は習慣性を覚えて
体で全てを理解したのは、もう随分前のことだったんだよ…

体で?

うん、体で…


  こんなもの、英国紳士だけの遊びではなかろうに、な


はちきれかけた私に指を添えて、





細く流れる水を受止めていた人差し指が

溢れ出す私を受止めて、ああ、もうこれは英国紳士の習慣なんかじゃなくて

ねぇ

私たちの習慣ってヤツに切り替えちゃってもいいかな?

だって君だって




君だって、体で理解したがってる







ああ、ザムザ

私を

その美しい身体で…覆って







ああ。
こうしている間にも、私の脳の中には色々なものが溜まって行くよ。
こごった物を一つ一つ自分で溶いて、言葉にして君に聞かせる。
時に自分で溶くことの出来ない物がある。それを溶くためには鍵が必要で。
その鍵は私の中にあるけれども、それをひねることが出来るのは私ではない。
そう思うんだけどね、そこで私が言いたいのはね…
なに、笑ってるの。
やだな、なんか見透かされてるみたいで気持ち悪いよ。


なに、笑ってるの?


あ、カフカ読みたい?
もういい?アハハ、君って結構飽きっぽいよね。
じゃあ、今度は何を話そうか。


じゃあ、今度は何を話そうか…








〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

コメント。

どこかで得た知識を人と話し合って教えあうってのは、
ものすごく楽しいことだと思うのですよ。
知識に対する相手の思考なんかも聞けるわけですし、
そうするとまた自分の思考の幅が広がる。
自分で一人で考え込んでいても、なかなか広がらないもので。
自分を広くすることが出来る、そんな話し相手がいるって、とても素敵なことだと。
言葉や思考を語り合う、それを遊びに出来るって、
凄く素敵なことじゃないかな、って思うのです。
アルベルトとセルバンテスは、ふざけたり笑ったり、ってのもあるでしょうが、
それ以外に、こんな感じで言葉遊びをしているような気がします。
多分、セルバンテスのほうに分があるのだとは思うのですが(笑)
ちょっと古風な遊びではありますが…何故かこの二人には古風なものまで似合っちゃいますね。
だからこの二人って凄く好きなんだろうなァ…。
他の人からしたら、煩くて面倒なだけなんでしょうが。
レッドとかこういう話になったら頭から火を噴きそうだし(笑)
「理解不能解析不能思考停止強制終了!」って感じで。

ちなみに、英国紳士の習慣というのは、イコールマスターベーションのことでした。
翻訳の文章というのは、元の文章の味が消えていやなものかと思っていたのですが、
翻訳した人間の表現がまた面白いものもありますね。
「ふさぎの虫」
これは二葉亭四迷が翻訳したゴーリキーの「トスカ」という小説で、
欝や愁い、心に突然生じる気分の総称を「ふさぎの虫」と訳したようです。
暗く陰鬱な気分になったとき、そのときは、心に、この
「ふさぎの虫」が、牙を立てた瞬間なのかもしれません。
自己発生ではない、虫の所為なのだと。
そう考えて、少し楽になろうと。
そういった意図が裏側にチラリと見えたりして、
人間らしいなぁなんて思ったりしますね。
作り上げられた美しい文章だけでなく、
こう言った言葉の魔力を使いこなせる作家さんというのは良いですね。
こういう作家さんのことを私は「言葉使い」と呼んでます。
魔法使い、鳥使い、猛獣使い、言葉使い。

しかし語彙は豊富なのには越したことはありませんな。

…私ももっと引き出しと中身を増やさねば…。
日本人として誇るために。