そうだ。

行こう。

なにを

躊躇って

いるのだ。

行こう。

窓を開け。

テラスに

踏み出せ。

そうだ。

下を

見るな。

摩天楼などというものは架空のものであってこの高さというものの概念はすでにこの意識下の制御の一つでしかない

そうだ。

空だ。

藍色の

空だ。

星の

一つも

無い、

藍色ににごった空の真上に                        穴。









手を伸ばしても絶対に届くことの無い穴。









「ねぇ。月面着陸って知ってる?」

ああ

「月の表面にね。人が立ったんだってさ。もう随分と昔の話になるらしいけど」

ああ

「それは本当に月だったと思うかい?」

科学的には

「人間の目で見たもの全てが本物だと思うのかい」









手を伸ばしても絶対に届くことの無い穴























綿

気がつくと、道に迷ってしまっていたようだった。
辺りを見回してみても、覚えの無い景色。
どっちの方向から来たのかさえも分からない。
戻るにはどう行けばいい?
戻るって、どこへ?

道は細い繊維でできていて

そこを辿ると、体がぐんと沈んだ。

然し、両腕両足胴体から髪の毛にいたるまで繊維に絡まりきってしまっていた私は

そのまま沈んで落ちていくことはなかった。

音、一つ無い。

手に絡まった繊維を引っ張ってみると、それは簡単にずるずると抜けていくようだった

抜けていく途中で他の繊維がそれに絡まりどんどんと大きな塊になり、だんだんと抜けていかなくなるのだった。
懸命に引っ張ってみても、ゴムのように伸び縮みを繰り返すだけ。


私は叫ぶことにした。


ここならば、大丈夫だから。


叫ぶことにした。


何度も何度も叫ぶことにした。


実際、喉から血が出た。


声が嗄れた。


然しその時の私にとっては、声というものだけが全てであった。


声は繊維に絡まり、私の周りに壁を作った。


それでも叫んだ。


耳鳴りがするほど叫んだ。


声は繊維を超えることはなかった。


だから叫んだ。


安心して叫んだ。



























「馬鹿馬鹿しい、歴史にケチをつけるということ自体がまったくもって馬鹿馬鹿しい」
「そうかな?じゃあ、ずっと語られてきている歴史、教科書のにっている歴史は全て本当のことだと思うのかい」
セルバンテスといつものように対話する。
あるときは部屋で、あるときは海で。あるときは車内で。あるときはベッドの中で。

夜の、風は、昼より透き通っていると思わんか

「それは、見えなくなるからさ」

「見えなくなるから?」

「そう。目に入るものが少なくなるだろう?視覚要素が減る、よって聴覚が敏感になる、触覚が敏感になる、嗅覚もね」

「ふむ。そのせいなのか」

「なにが?」

「自分で言っただろう、夜の風が透き通って感じる原因だ」

「ああ、知らない。どうだろうね」

あいも変わらず、セルバンテスは自分の発言に責任を持たない。
もしかしたら、それ以上会話を続けたくないのかもしれない。
だったら、もう儂が話をする必要も無いだろう。
儂も黙っていてやる。
お前が何か話すまで。
話題なんてものは始めっから無い。そもそも、話題を振ってまで喋りたくも無い。
口から出る音がうるさく感じる時だってあるさ。
どんなにその声帯の震える音が魅力的であったとしても、だ。

窓を開け放したままのカーテンが、夜風に煽られ影をグワリと投げ込んだ。

陰の動きに体が混じるのが嫌で、儂はそれを避けるように離れた。

セルバンテスはその影に飲み込まれてしまっていた。

月光に、その手首だけが白く残って見えた。




人間が見たもの全てが本当のことだと思うのかい




















手に触れた感触があまりにも柔らかかったので、目を閉じた。
閉じると、その感触はとても鮮明に私に刺激を与えるようだった。
そして私は叫び続ける
この繊維の向こうには私の求めるものがある
私はそこへ行かなくてはならない
今はまだ戻りたくない
まだ叫び足りないんだ。
まだ。
まだまだ。
もっと叫ばせてください。
そうだな、この体が声になって消えてしまうくらいってのはどうですか?
誰が答えようとも、その声は恐らく私の耳に届くことは無いだろう。

だから私は叫び続ける


むせてしまった自分にちょっとだけ躊躇って


悔しくてひときわ大きく叫んだ


求めてはくれまいか!!!!!!!!!!どんな情熱よりもどんな言葉よりもどんな声よりもどんな色よりもどんな匂いよりも


どんな物よりもこの私のこの心を伝えられるものは一体どんなものなのですか!


手紙ですか

言葉ですか

…私自身なのですか

手に絡まっていた繊維がほどけていく

ああ、落ちる

いや昇って行く

月が昇りまた落ちるようにそのように

またそのように













地面に足をつけ、空を見上げると穴は大きくその口を開いており
さっきよりもまた大きくなったように見えた
ふいにそれを雲が隠し

儂は目を凝らした。

セルバンテスは、もう手首さえも光にさらしてはおらずカーテンの影に溶け込んでしまっているようだった。

彼は影になってしまった

「今日は、風が強いようだな」

「…私が歴史を否定するのがそんなに気に入らないかい?」

「いや、興味が無い」

「そういうだろうと思ったよ」

「しかたないだろう」

「そう、君は過去よりも未来よりも今を見ている」

「…そうだな」

今日は、風が強いようだな。

「そうだね」

歴史と今は密接に繋がっていると言う。
歴史を知って、それを今に役立てろという。
経験は確かに大切なものだと思う。
しかし、どう思う?

暗闇に向かって話しかける。

誰もいないかもしれない、然しいるかもしれない。

見えなくても、それに向かって話しかければ、どこからか答えが返ってくるかもしれない。

しかし、どう、思う?

「君はどう思う?」

暗闇から返答があり、少し安心する。

「儂か?」
「そう。恐らく、君には答えがあるね。それを聞いてみたいな」
「儂は…わからん」
「そう、それが君の答えだ。ワカラナイ。それが君の答えだね」
「…え?」
「いいかい、君は自分が私にした質問に対して、全然興味を持っていない。それよりももっと気になって仕方が無いことがある。だろう?」

そう。
そう。
そうなのだ。

そうだ。

行こう。

なにを

躊躇って

いるのだ。

行こう。

窓を開け。

テラスに

踏み出せ。

そうだ。

下を

見るな。

そうだ。




    上を見ろ




雲が晴れていくだろう
見えるか、セルバンテス。
雲が晴れていくだろう。




「ああ、そうだね」





また、穴が見える
赤く白く黄色い穴が






部屋の中は真っ暗だったが
そこに溶け込んでいた影は、月明かりに照らされてジワジワと形を見せ始めた。






部屋の真ん中に、真っ白な綿が一つ。






さっきお前が儂に質問した




人間が見たもの全てが本当のことかどうか、についてだが




ただ一つ言えることがあるな。




「儂が今見ているものは、虚構である」











落ちる、昇る、上昇して止まる、誰もいない
誰も聞こえない
いくら叫んでも心配ない
ああ、繊維がほどけていく
見えなくなる、白い壁が、私の言葉もほどけて消える
私の叫びが繊維に絡まりほどけて落ちて

私の足元には気づけば綿の群れがぽつぽつと浮かんでいて

風に吹かれて消えていってしまうのだろうと











月から来た紳士が私の前で立ち止まり、街灯に照らされた私を一瞥すると、
「嘘だな」
とつぶやいた。
私の足元を見、おもむろにかがんで綿の玉を拾い上げ、
満足そうに微笑む
「これが本当だ」
彼は私にマッチ箱を一つ渡すと、
その綿を口に放り込んだ。

「なかなかの美味である」

なかなかの美味であると言って





アルベルトは気持ちよさそうに笑った







月面着陸なんて
案外妄想だったのかもしれない。
けれどその妄想が鮮明ならば

…月に立ったのと同じことになるのだろうと…