汗も引いてきた頃、火をつけた葉巻が丁度中ほどになった。
それを灰皿に押し付けつつ、ふと横を見る。
うつ伏せた身体のラインが、真っ白なシーツに浮き彫りになっている。
枕部分に腰を預けて座った儂は、そのセルバンテスの身体の上のシーツをちょいと引き上げてみた。
「んー」
身体の下に向こうの端が入ってしまっているようで、それは簡単に抜けない。
力を込めてぐい、と引っ張ると、セルバンテスの身体が儂の方へ少し傾くだけ。
引っ張るのをやめると、元の位置に戻る。


ぐい。

「んー」

ぱっ

ぼふ。



ぐい

「うー」

ぱっ

ぼふ。


…面白い。


少しの間それを面白がっていたが、だんだんそれにも飽きてきた。
そろそろやめようか、と思いつつ引っ張ると、「やー」と、不快の意思を示してきたので、やめることにした。

そのまま、することが無くなって、後ろ手をついて上を見上げる。
ただの天井がある。
木目も無く、織りの目も無く、単なる引かれた長方形の生成りの天井。
ベッドサイドランプだけが温かみのある光で部屋を照らし出し、
天井の隅においては、影に溶け込んでいる。
じっと、その溶け込んでいる曖昧な境界線を見ていた。
ギシ、とベットが僅かに動いて、明かりが揺れる。

…暇だな。音楽でもかけておけばよかったか。そうすればそれに耳を傾けることもできた。
いや、かけなくて良かったのかも知れない。
…交響楽の壮大な流れにあわせて ─ 行 為 の 絶 頂 ─ という可能性もあったと予想が付く。それは頂けん。
いや、むしろその盛り上がりがより掻き立てる結果になるという可能性も

…くだらんな、如何せんくだらん。

音楽は音楽であって、他のものに穢されてはならん物なのだ。

「んーーーーーーーーーー」

「なんだ?起きているのかセルバンテス」

暇が紛れる、と、少々期待をかけてながら声を掛ける自分が居る。
他人(ひと)を暇つぶしにするだなんて無礼な話だ。

うむ。儂はさっきから余り良くない事ばかりの様だ。
では、逆に暇を潰すときに何をしたらよろしいのか。
そもそも、暇であることは罪なのではなかろうか。
本気で命を燃やして生きておれば、暇などと感じる間もないのだろう。
ならば、儂は今怠惰しているということになる。
いかん。
これはいかん。

ギシ、
「?」
とベッドが凹み、その元を確認するとセルバンテスの肘がシーツから覗いていた。
肘を付いて、もう片方の手を伸ばして明かりの届かぬ向こうの何かを探っている。

「どうした?」
「んーーーーーーーーっ」
「なんだ?」
「伸びっ」

伸びか。
普通「伸び」と言えば、起き上がって両手を天に突き出すのが「形」だろうが。

「そんなコト誰が決めたんだろうねぇ」
「…ふむ」

確かに。
誰に決められて誰に儂はこれをインプットされたのだろう。
これは決められた事項ではない。好きに伸びれば良いのだ。
実際、儂も形を気にして伸びたことはない。

伸び終わって満足したのか、セルバンテスの腕がそろそろと自分の身体の下に戻される。
それを猫のように組んで、顔を持ち上げた。

挙動一つ一つを、じっと見ている自分に気付く。

「足の指を切り落とした女は少しして自殺したんだって」
「…なに?」
「いいや」

ランプが照らし出しているのは、儂の見えぬセルバンテスの左頬。

く、と首を捻って、筋を鳴らす。

「ああ」

と、何かに気づいたように片腕を持ち上げ、面倒くさそうにその下に敷かれた腕を引きずり出す。
…何かが始まる。
その時、儂の中に巻き起こるのは、微かな恐れの感覚。
恐怖する、その才に。
恐怖する。その計り知れぬ感覚に。

それが自分に無い物だということが、酷く恥ずかしくなる。

耳を閉じてしまいたい。

然し儂はそれに耳を傾ける。

恐ろしくも、儂を潰しかねないその重圧をあえて甘んじて受けんがために。

少し緊張した儂を知ってか知らずか、彼はその手をシーツの上に投げ出した。

枕に沿って指が這い上がり、ぽんぽん、とそこを叩く。

開いた手がだんだんと拳になり、それが人差し指についと変わった。

「ここにね」








喉が勝手に鳴る。











「ほくろがあるのだよ」
「ホクロ?!」
「そう。ほくろ。それでね、それは沢山いる。ほくろだから当然黒い集合体だね、
それがここにいる。たくさんね」
「…」



何を、言い出すかと…思えば。
何を言い出すのだ。
儂はいつもそれを解するために頭をフル回転なのだぞ。
気にも留めず、その指はほくろのいる位置の先に、一本の線を引いた。


「ここにね、川が流れているのだよ。そして、その向こうには城がある。真っ白な城がね」
「…うむ」
「そして、ほくろたちはこの川を越えてその城に行きたくてしょうがない。用があるかどうかは分からない。
 私にはね。ほくろのみぞ知る、そう、何か理由があるのだ。
 そして、このほくろたちは、この川を越えようとする。」

つ、と、もう一度川が引かれる。

指先が押した枕に、その線がくっきりと跡を残した。
川が、途端にそこに流れ始める。





ほくろたちは川を越えようと、川に向かった。
しかし、その川の流れの前に、いくものほくろが命を落とした。
流され、飲み込まれ、そして、どこへ続くとも知れぬその流れに逆らえずにただほくろの数は減るばかり。
これでは駄目だ。
このままでは、絶対に向こう岸になんか渡れるわけが無い。
そのほくろの中に、頭のいいほくろがいた。
そのほくろが、意を決したように言う。
「橋を作ろう」
その考えに、なすすべも無かったほくろたちは喜び勇み、それを建設すべく、木材や縄を用意し始める。
頭のいいほくろも、それを懸命に手伝った。
彼はただ見ているだけのほくろではなかった。
そして、橋が建設され始めた。
橋を作るには、まず、川の中に足場を作らねばならない。
ほくろは小さい。ほくろであるから。
向こう岸まで板を渡す、などという所業は到底その身体では出来なかったのだ。
川の向こうには、美しい城が見えてる。
いつかそこにたどり着かねばならない、勝手にそんな気持ちが彼らの中に沸いていた。
それが、宿命であるかのように、自分に決められたことであるかのように。

足場を作る作業は手間取った。
そしてまた、犠牲が増えていく。
川の向こうに城はある。
見えている。
川が目の前にある。
ほくろはそこを越えられない。
流されていくほくろたちは叫びも声も出さない。ただ静かに流されていくだけ。
橋は遅々として進まず、ちょっとしたことで足場が崩れ、振り出しに戻った。

城は川の向こうにある。

ほくろたちは川を超えられない。絶対に。

だから


「だから、いつまでも城は真っ白なままなのだよ」











言葉を紡ぎ終わると、セルバンテスはふぅ、と小さなため息をついた。
然し別段疲れた様子も無い。
一体、どういう意味なのだ?この話は。
どうして儂に語られたのだ?
…そして、何故儂の心は微かに震えたのだ?

…儂には、何もないのか。

誇らしげに横たわるその身体に、
触れることがなぜか酷く躊躇われた。

そして。

憎い。

「…くだらん」

「…そう?」



「確かに橋は無駄かもしれん、然し何故そこを動かん、川岸をさかのぼるなり何なりすればよいのだ」

「…そう?」


……


「…儂にはどうでもいい話だ」

「……」

「何とか言え」

「や、別に、何もないよ」

「何なのだ」

「え?」

「何なのだ、お前は」


前を向いたままのセルバンテスを横目で見る。
当たり前のような顔をして。
儂を馬鹿にするのも大概にしろ。
…届かないのか。
儂は、お前に…

「寝る」
「え?」
「お前には関係ない」
「…アルベルト?」
「話はここまでだ」

組んだ腕に、指が触れたから、軽く振り払った。

「…私を狂っていると思うのかい」
「知らん」
「…ねぇ、会話になってないよ」
「お前の話もそれと同類だろう」
「なにそれ」

ふいに、明かりをさえぎる大きな影が広がる。
セルバンテスが起き上がったのだ。
思わず、舌打ちが出た。

「なに?今の舌打ち。私が言ったことが理解できないだけで私に当たるなんて、何なの一体?」
「ああ、そうだろうな」
「はぁ?」
「儂ごときではお前を染めることなどできんだろうな!!!」

影に向かって強く言い放つ。
この影に溺れてはいけない。
儂は儂であり、一個の個体なのだ。
何かに取り込まれそうなら、それが何か分からずとも逆らうまで!

「…あ…違う、違うんだ、そういう意味じゃ…」

うつむいたって、知らん。

「じゃあどんな意味だ」
「…分からない、私にも」
「ならば!」
「だからといって決め付けないでよ!もう少し考えたら?」
「なんだと?!」
「君の中に答えは一つしかないのかい単純脳細胞!」
「なに?!貴様言わせておけばぬけぬけと…」
「へぇ、じゃあ違うのかい」
「…」
「ホラ答えられな…」



「煩い黙れ!今から考える!!!!!」



「…あ、そ」
シーツをかなぐり捨てた腕が、一瞬だけ明かりに浮かび上がって消えた。
裸のセルバンテスが部屋の隅に溶け込む。
「逃げるのか」
「…煩いって言うから黙ってるんだよ」
「お前も考えろ!」
「え?」
「当然だろう!何故儂が一人で考えねばならん。お前も分からんのだろう、何故考えようとせん!」
「何で考える必要があるのさ、なんでキミはいつも私の裏の裏まで見ないと気が済まないんだぃ?!」

「…」

貴様がなんと言おうと。
儂は…

何故、貴様が評されて、儂は…

これ以上考えてはいけないような気がして、思考を一旦ストップさせた。
頭が、ぼんやりとする。
怒りで顔が熱い。
セルバンテスは逃げた。儂をここに置いて。明かりの中に儂一人を置いて、暗がりに身を潜めた。

…城は、真っ白なままで
儂はその城に手が届かないのだろうと…
いくら頑張ってもたどり着くことのできない城。
それにお前を重ね合わせてしまったのは、儂の弱さ。
しかし、それを語ったお前は…一体、どういうつもりだったのだ。
儂は勝手に解釈をつけた。
しかし
…セルバンテスは考えたくなさそうだ。
いや、あいつのことだ。知らないフリをして考えているに違いない。
ここでけりをつけなければ、恐らく、ずっと、ずっと。
ずっと…儂の知らないところで考え続ける。


そんなコトが…この儂に許せるとでも思っているのか


「…橋をかける気があるかセルバンテス」
「…」
「そちらの城からお前は橋をかける気があるか」
「…あ」
「…」
「…そうか、城は動かないんだ」
「…うむ!そうか!」
「そうか、ほくろがいくら川向こうで頑張っていても、城は動けないんだ」


そうか。
そうか。
ほくろが渡ろうとしている川。ほくろは渡れないが。
城もまた。向こう岸に行きたいのかもしれないのだ。

「…手を伸ばせるかいアルベルト」
「無論」
「…私が手を伸ばせば届くかな…?」
「…わからん」
「届いてよ」
「…試してみろ」

儂もまた、手を伸ばす。
暗がりに向けて。
何も見えない暗がりの中に、そこに溶け込むセルバンテスよ。
惑わされるようにそこから抜け出して来い。
儂にそれだけの価値があると、お前が言わねば
…儂は



「お前が望むのならば…」


そう。


「儂はこの手をいかなることがあろうとも、引いたりはせん!」



ヒュウ、と、暗がりから口笛。



「カッコイ〜♪」



明かりに足を浸したセルバンテスは儂の前におのずから姿を現した。
伸ばした儂の指に、伸ばした指を…ゆっくりと絡めて。
勝気な笑みが、儂を愚弄することはなく…
少し、心の奥にまだ残っている「喪失感」
儂には一体何があるのだろう。
こいつには儂が恐れるべき感覚がある。
儂には…
いや、考えてもせんのないことだ。



それは恐らく───いや、確実に───



この指がつかんだ先にあるのだから。






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こめんと

中途半端ですか?
小説としては半端なのかもしれませんね。
彼らの関係は、これからずっと続いていきます。
アルベルトの気持ちに何か答えをつけるには、
早すぎるんじゃないかという気がしました。
だから、彼は宙ぶらりんのままです。
おそらくは、セルバンテスも。
いつも。
ずっと。
いつか見えるかもしれない、なんらかを求めて、
ずっと、相手を見続けていける関係が、続いていく。

何か問題が起きて、それが解決する、そればかりをお話にしたくない気がしたので…
今回はこういう話にさせていただきました。
こう、何かモジモジしたものが残ってあまり気分のいいものじゃないかもしれませんが…
もう少し、この男たちにお付き合いください。
知らぬうちに、突然今日の答えがアルベルトの中に出てくるかもしれません。

相手を尊敬し、評していたとしても、
その能力や才能に、憧れ、そして嫉妬してしまう時というのは必ずあると。
それがない人間は自分の能力に溺れ、勘違いしているだけの人間なのではないかと。
もしくは、人に興味がないのかも。
興味がもてるだけの相手を見つけ出すことができたら、その人生は…
すごく誇ることの出来るもののように思えるのです。

羨望に身を焦がそうともね。(笑)悔しいなあ。