窓一面に白い海原。
月明かりの中、花は水面に変わる。
「これは……。」
アルベルトは思わず息を呑んだ。
夕食後に招かれたセルバンテスの自室は、何故か明かりは灯されておらず、
突然目の前に開かれたテラスの窓に、その海は姿を現した。
「見事だろう?」
セルバンテスは重い遮光カーテンの端を掴んだまま、笑っているらしい。
二階の大き目の窓から見える桜は丁度高さ的に上の花しか見えず、
その花は煌々と照りつける月光に白く光り、
夜風にそよぐその姿は、波の様で。
「この屋敷で一番桜が見える部屋さ。」
「む……見事だ、としか言いようが無いな。」
「最高のお言葉、と、ありがたく頂戴しようか。」
白い影が部屋を動く。
厚い絨毯で足音一つしないその様は魚の様だ。
「月明かりが大分強いから、少しは部屋の中が解ると思うんだけど。」
「大丈夫だ。」
月明かりと花の水面の波光。
それだけで部屋自体が光るかのように白く浮かび上がる。
部屋の中央にテーブルと椅子が備え付けられており、
アルベルトが座るのを確認すると、セルバンテスも向いに腰掛けた。
すでにテーブルに準備されていたグラスを手に取ると、
二人は軽くその縁を合わせた。
夜風は夕方より強さを増していた。
静かな細波は時折その姿を変え、
不意に飛沫を舞い上げつつ、大きなうねりを見せる。
二人は特に何を話すとも無く、花を見ていた。
時折セルバンテスはチラリ、とアルベルトの方を見やったが、
彼のその視線が窓の外の海原に止まったままであるのを確認すると、
本当に満ち足りた表情で、また自分もその窓の外へと目を向ける。
風の音が時々ごぅ、と響いたが、
部屋の中、屋敷の中は水の底の様に静かだ。
『キミは、知らないのだろうね。』
その見事な桜に初めて出会ったときの昂揚。
その姿の神々しさ。
雄々しさ。
潔さ。
あれ程までに自分を飲み込む感覚は、
絶対に無いと思っていたのに。
『何故だろうね。』
アルベルトのその姿に、時折それを重ねてしまうのは。
自分自身の全てを委ねたいと、
本当の心で、自分という『もの』を理解してもらいたいと。
認めて貰いたい訳じゃなく。
理解される事に恐怖と希望を感じ。
ただ、一人の人間としての自分への視線。
それだけが欲しいと、
幼子の我侭の様に。
『―――――こんな自分は知らない。』
ごぅ、と響く風の音。
海原は夜の嵐に荒れ始める。
セルバンテスは立ち上がると、真っ直ぐに窓へと歩み寄る。
「セルバンテス?」
アルベルトが不審気に声をかける。
その声に答えずに、セルバンテスはテラスへの窓の鍵を外すと、
そのまま一気に、その窓を開放する。
ゴウッ!!
一瞬アルベルトの視界が白くなり、
次の瞬間、部屋の中に嵐が舞い降りたことを知る。
海原はすでに形無く、
あるのは白く吹き荒れ狂う花弁の嵐―――――。
「セルバンテス!」
思わず立ち上がり、アルベルトは叫んだ。
「本当に…。」
静かな、それでいてこの風の中でも通る声。
開け放した窓を背にし、
何かを受け止めるかの様に両手を広げたセルバンテスの姿があった。
部屋に伸びた影だけが、何故か黒く濃く。
その姿は淡い。
「本当に、この花はキミに似ているね。
一見物静かなこの姿が、
何故こんなにも激しい嵐となるのだろう?
本当に…何て・・・何て……。」
月が逆光になり、セルバンテスの表情は掴めない。
笑う様な。
泣いている様な。
その声は。
「セルバンテス!」
アルベルトが叫ぶ。
「もしお前がこの花を儂に例えると言うのなら、
この風を起こしているのは誰だ?
この逆巻く感情を煽っているのは誰だと思っているのだ?!」
花弁が舞い踊る。
風が、息をつく。
「……この花は、お前に似ているぞ。」
アルベルトはテラスへと歩み寄る。
「華やかで儚い。静かでありながら、嵐にも変わる。
この花は、お前にそっくりだ―――――」
言葉の最後は、セルバンテスが抱き付いた事で途切れた。
厚い絨毯は勢い良く倒れこんだ二人の身体を受け止めた。
縋り付く様にアルベルトの背に回された腕は、妙に力強く。
「ハハ…本当に、本当にキミは……!」
支える様にセルバンテスの背に回された腕は、妙に熱く。
「…恥ずかしくない?そんな台詞…。」
「ッ!……お、お前なッ…!」
顔を赤らめたアルベルトに、セルバンテスは微笑み、唇を重ねる。
夜の嵐は過ぎ去り、
花の海原は水面に変わる。
部屋の中に、二匹の魚を残して。
明日には花は散ってしまうだろうから、
今は、こうして花に抱かれていよう。
『そして、伝えようか。』
どれだけキミが特別かを。
私という人間が、どれだけキミに魅せられているのかを―――――。
コメント
ユキノから頂きました。小説です。
えー、一つだけ。
読んだ感動で無言になるとはこの事也、巡り会う事は容易では無いだろう。