道路は昨夜の雨に湿っていて、
ひんやりとした空気が足首を伝って這いあがって来る。

見上げると、ウロコ状の雲。




一時前。
忙しなく車が通う観戦道路から離れて、砂利道へとアシハナが進路を変えた。

「どこへ行くんだ?」
「んー、リゾート地、と言うと無粋ですね、そうですねェ、えーと」
「リゾート地になんの用だ?」
「ジョージさン話遮らないで下せぇよ」
「避暑地か?」
「ああ、それそれ。日本語よぅく知ってますねぇ。偉い偉い。」

アシハナのいつもながらの構いの文句は無視するコトにした。
そんな私の反応が物足りないのか、チラチラとこっちを見ている。

ここでさ、と、アシハナの言葉が小さく聞こえた。

車の扉を閉めて、降り立った地に煤けた看板。

【照月湖】

「?」
「ショウゲツコ」
「なに?」
「ショウゲツコ、と読みます。湖でさぁ。」

あたりには点々と車が止めてあり、観光客?それとも地元の人間?が、ちらりほらり。
カモが遠くの方でタダならぬ奇声を上げている。観光客の唯一の遊びなのだろう。
日本人はこう言うトコロが好きなのか?
いたって小さな湖に、湖を害するべく桃色のボートが並ぶ。

「勿体無いことしますよねぇ。」

私の考えているコトを読んだのかと思うタイミングで、アシハナが言った。
アシハナを見ると、湖畔に立っている建物をじっと見つめている。
アレが、勿体無いのか。
私が思っていたこととは違ったようだな。
「湖の周りが周遊出来ますぜ。まぁ何にもないですがね」
「何もないことが特別なんだろう」
「言いますね…まぁドンピシャでさ。」

遠くを見ると、木々の合間にちらほらと見える屋根。
家が、有るのか?…こんなトコロに?
見ると、アシハナはさっさと先に歩き始めていて、
すでに5メートル40センチくらいは離れて行っていた。
足元に、枯れ葉。
踏み潰して良いものだろうかと、一瞬戸惑う。
ゆっくりと、ソコに足を踏み出して。
カサカサと言う音に目を向けると、左斜面から枯れ葉が転げ落ちてくる。
私に踏まれるのを望んでいるかのように。

湖を囲うロープに指先を引っ掻けて弾きながら歩いた。
ロープが引っかかっている木々が振動で揺れる。
斜面を見ると、木の葉の群れ。
あれも、踏まれるのを待っている。
遠くに見えるアシハナに、気づかれないように。
斜面を奥まで見上げた。
時間が止まったような錯覚、不思議な場所だ。
生活感がないと言う事は、時間の流れを感じないと言う事に値する。
そもそも生活と言うのは、食べて、眠り、その食と睡眠の用意をする事。
生きる為の用意をする事。

その苦労を少しでも忘れる為に、人間は避暑地を使うのだろう。
逃げて。
忘れて。
しかし食べる事は止めず。
眠る事を避ける事はかなわない。

夜を起き、
食を乱し
少しでも生活から、生きている事を別枠に数えようとして。
生きている事はなにか特別な事なのだと、そう、定めたくて。

だから、私は…

平凡な、たんなる、普通の生き物で終わる事が何故か、馬鹿にされそうな気がしていた。

落ち葉を踏む。
私を刻みつける為に。
しかし、ためらいがそれを踏みにじることまでは許さない。
…くだらない、考えだな…。

天までつきぬける木々
映している様で掻き消そうとしている湖面
音だけの風
踏み荒らす私の存在感

そっと、小道を離れ。
斜面の角度を足首に負担させた。
アシハナの呼ぶ声。
振りかえっても、アシハナは見えない。
どこで、呼んでいるんだろう。
この斜面の向こう?
さく、さく。
落ち葉が、悲鳴を上げる。
この向こうに、何がある?
振りかえって見下ろすと、湖面。
落ちて来いと言わんばかりに口を開けている。
ソコに優雅に線を引いて泳ぐ鴨一匹。

あそこは、私が居て良い場所じゃない。

斜面に向き直ると、その先に小さな家のようなものが見えた。

「…人は住んでいないようだな…なんだココは」

登りきった斜面の向こうにもまた斜面。
ああ、いつまで続くんだ。
目の前には家。
まるで監視小屋。
斜面の上から、湖に有る物来る物、流れ付く物全てを監視しつづける為だけの小屋の様にも…

ごめんね?

「なに?」

約束、破ってゴメンね。

「…」

振り向くと、子供がいた。

「親はどこにいる。子供が一人でうろつく場所じゃないだろう」

私の声に答えもせずに、
子供が脅えた様に身を翻した。

「…おい!」

もしかしたら、ココはリゾートマンション地で。
人の土地に勝手に入ってしまったんじゃないかと。
子供は其処の子供で、私を誰かと間違えた。
多分、そうだ。
じゃなきゃ、ワケがわからない。

ごめんね。

「……!!!」


振りかえると、子供がいた。
手に、赤い杖を持って。
それを私に差し出す。

コレ、あげたかったのに、ゴメンね、行けなくて…

差し出されたそれを、手に取る。

「…っ」

皮膚の焼け焦げる音。

ごめんね。ウソついて。

なにを…

あげたかったんだ、柿、でも、でも、落としちゃった。怖くて。

手の平に熱い感触。
思わず取り落とした赤い杖が、斜面に刺さる。
斜面が溶け出して。
湖に、落ちて行く、全部、家も、子供も。

私一人を其処に置いたまま。

全て流れ落ちて、湖を埋めていく。

「…!アシハナ!」

下には、あの男がいる筈。

「兄さン!」

腕を引かれて、振り向いた。
アシハナの姿。
息を切らして、私の腕を掴んでいる。

「…アンタも、毒されるタイプでしたか」
「なんのことだ?」
「突然いなくなったから…もしやと思って……」

カラン。
小石が落ちる音。
足元を見ると、崩れ掛けた石段の一部を踏み砕いていた。
赤い手すり。
振り向くと、赤い建物。
誰もいない、寂れた御堂。

足もとの杖を拾い上げて、石段の下まで投げ捨てた。

本尊の前まで歩くと、微かな香り。
賽銭箱の前に、柿が一つ。
踏み潰そうとして、止めた。

…私は、生活を脅かす生き物ではなかった筈だと気づいただけだ。

ふと、
辺りを見まわす。

「アシハナ?」

階段の下を覗き見て。
その下には、湖なんかない。
向こうの斜面の下にも、湖なんかない。
取り残されたのは、私なのか、この場所なのか。

「…」

柿を取り上げて。
アシハナを探しにいこう。
多分向こうも私を探している筈だ。
たぶん、湖のほとりで、鴨の嬌声に巻き込まれながら。

階段を降りると、柿が手の中で崩れ落ちた。

種が、一粒。手の平に残ってじっとしている。

「ジョージさン?なにやッてんですか、そんな所危ないでしょ!」

ふと気がつくと、落としっぱなしだった目線に、枯れ葉まみれの革靴。
目線を上げると、呆れ果てたアシハナがいた。

「あのですねー。アタシがいくらニューヨーカー並に速いからって、
 迷子にまでなる事はないでしょうよ」
「…迷子?私が?」
「あー、うるさい鴨ですねぇ!風流もへったくれもありゃしねぇや」
「鴨?」

見渡すと、向こう岸の湖畔に、鴨の群れ。
足元に広がる静かな湖面を、ツゥと横切る一匹の鴨。

「…アタシの別荘が近くにありやすから、其処行ってやすみません?」
「…そうだな。ココは私には過激過ぎる」
「は?」

ふい、と柿の種を湖に投げ入れた。

ありがとう。

「?」
「子供と年寄りが逃げ切れなかった様で」
「…なんだと?」
「…あ、やっと終点ですぜ、参ったなァ、
 思ったより広いでやンの、疲れちまいましたよアタシぁ…、あ、トウモロコシ売ってる」
「おい、アシハナ、子供がどうとか…」
「はい?」
「…なんでもない」


湖の奥に、
動かずにじっと浮いている鴨が一匹。
腹に含んだ種一粒。
不意に飛び立って。


「……どこ行くんでしょうねぇ?」
「家に帰るだけさ」
「ンじゃアタシ等も帰りますか」


車のエンジン音に、不意に温かみを感じた。
ああ、帰って行ける。
生活が、見える。
アシハナの差し出した食べ掛けのトウモロコシを、無言で受け取った。

「アシハナ」
「はい?」
「また今度、またこの場所に来てみないか…。」
「ああ、イイですよ?気に入ったんですかぃ?」
「…絶対だぞ。」
「はぁ?はぁ。はい。絶対、ですね。はは。アンタも可笑しな人ですねぇ」

ふいに、とりつけた小さな約束。
約束がしてみたくなったから。
生活から逃げた私達から…
生活が逃げていってしまわないように。


後は家に帰るだけ…