★海の時計と魚の呟き★


「ボタン…」
「……」
「俺がわかるか?」
「勝也、さんです。わかりますよ…」
「じゃあなんで泣いてる?ずっと泣いてるぞお前。」

溺れそうなくらい、自分の涙で溺れそうなくらい泣けたら。
楽になる、と、なにかの童話で読んだことがある。
ウソだった、子供だましだったんだ。
泣いても泣いても、溺れられない、俺には、そんなに、泣けないよ。

「どこか痛いのか?」
「イイエ…」
「悲しいコトでも?」
「イイエ…」
「怖いことがあったとか?」
「イイ、エ…なにも…なにも、ないから…」
「はっきりしろ、ムカツクな…」

不意に怒った勝也さんの手が振りあがるのを見た。
その手が空中で止まる。俺の顔を見て、酷く困惑して。

「そ、そんなにビビることねぇだろうが!」

そう言われてはじめて、自分の顔に気がついた。
目を見開いて。息が詰まって。歯を食いしばって。
顎と首が緊張して強張っている。
力を入れ過ぎて頭に血が昇って、ズキズキと痛い。
これは、恐怖と言う感情?
魚が、散って逃げ出した。
俺はおいてけぼりで、ここに残されて、みんなどこへ逃げたの?

「魚、が…」
「魚が、どうした?」
「逃げて…俺、とりのこされて…行き場所が…水槽が…
 海は、怖い、から」
「海は怖いか…」
「そう、海は怖い。何もかもがあるから、なにもないところへ逃げようと…逃げたら、あそこへ行けるかと思ったのに…どこにも見つからないから…どこにあるか、教えて下さい…。海へ行ったら、俺は存在価値なんてなくなるんです…鑑賞魚だってそうでしょう、沢山いるならなんの価値もない、一人で愛でられて、はじめて…」
「黙れ」


唇に息がかかる。続けようとした俺の声を無理に塞いで、
勝也さんの唇が俺を閉じる。
強いくらいの口付けが、俺の中にのめり込んでくるような。
ショップの小さい水槽に、一匹の小さい魚が泳いでいました。
その魚には名前もなくて、そして誰も名前をつけてくれようとは思いませんでした。
だって、見えなかったから。見えないくらい、どうでもイイ魚だったから。魚もそれをわかっていたから、そっと隠れていました。
岩の陰、水草の中、あの広い場所に行けたら気持ちがイイだろうに、とは思っても、その気持ちのよさが逆に怖いのです。人影が水槽を暗くかげらせます。それに脅えて魚はもっと深く隠れました。すると、その大きな影の手の先から、魚が一匹入ってきたのです。それは名もある綺麗な魚でした。小さい魚はそれを羨ましくて、いつも遠くから眺めていました。憧れて。でも、近くには寄れませんでした。だって、自分はみすぼらしいから。名前もないのに。
綺麗な魚が、自分に気づいて。それを酷く恥じました。綺麗な魚が言いました。「俺にも名前がないんだ。つけてくれよ」初めて、話し掛けられた言葉は自分を求める物でした。大切な名前を、ずっと誰かにつけてあげたかった名前を、綺麗な魚にあげました。小さな声であげました。
綺麗な魚は嬉しそうに僕を見ました。そして僕に名前をくれました。
ありがとう、ありがとう。ありがとう…。名前をくれて、ありがとう…。でも、僕には、行き場が無いから、名前があってもここにいるしか、無いんだよ。そう言って笑うしか、ないのでした。


「行き場なら、ここで十分じゃねぇか」


声がしました。
誰?
僕の名前を、今貰った大切な名前を呼んでくれたのは、誰?


「ボタン…?」


「勝也、さん…」



身体を抱きしめる感触が、酷く無力で。
もっと強く抱いてくれなければ、こぼれ落ちてしまいそうです…!
引き戻して下さい、貴方の手で、俺をここに、戻ってきたい!
もう、あんな怖いところへ放置されたく、ない…!
抱きしめられて貴方の髪の毛が俺の頬をくすぐります。
髪の匂い、俺の煙草の匂いが染み付いた髪の毛の匂い。そっと摺り寄せたら、耳に入ってくすぐったくなって身を捩ったけれど。まだ、離さないで。自分の手が、物を考えるこの脳天の下、首から肩、その先にくっついているコトに今更気づいて。そっとその手を動かしてみる。
俺は、ここに、いる…

「勝也さん…俺、ここに…」
「わからねぇか?いる、いるから安心しろ、わかったか?」
「…俺…ここに…。」

抱きしめた腕が、俺の身体中を探る。
俺のすべてを俺に確認させるかのように。
脚の先まで、確認されて、安心、する。

「魚は、どこ行った?」
「…ここに、いますよ…貴方の前に…ねェ…?」

微笑んだ俺の表情に不思議そうな顔をした勝也さんが、
俺の頬をペチペチと叩いた。

「なんです、か?」
「正気だよな?」
「いたって。」
「んじゃそろそろいいか?」
「なんですか?」

きょとんとした俺の手を自分の下腹部に導いて。
手に触れた其処の感触で、
なにかを我慢していた勝也さんにやっと気づいた。
自分のからだを其処に擦りつけながら沈んで。
固い其処に邪魔になってる服を口で咥えて引っ張ってみる。
「脱げって?」
布を咥えたまま、そこで横に首を振った。
俺を買ってくれたのは、貴方ですか?
名もなかったこの魚を、欲してくれたのは、貴方でしょうか。
それが凄く嬉しいから、恩返しをします。
歯でジッパーを咥えて、チリチリと引き下げて。じれったそうに俺の髪を掴む手を、頭を振ってどけました。下に何も履かない貴方の其処を唇で加えて引きずり出して、舌先で愛撫します。

俺を、ここに居させて下さい。
貴方の元に。
俺のすべてを使って、貴方を喜ばせましょう。





魚が、ふわりと浮いて。
綺麗な魚が言いました。
自分の名前を告げました。
俺達は飼われたのではなくて、ただの同居人。
水槽は店の奥にあったのではなくて。海の底にありました。
海は広いけど、魚の場所はここにありました。
邪魔されると、綺麗な魚は意外な棘を見せてそれを払います。だから、小さい魚は安心して、その元でゆっくりとたゆたっているのでした。


時計が、動かなくても。


その時計に今手を伸ばしたのは、誰ですか?
居場所が欲しいなら、時計をすぐに手放しなさい。
それは、貴方の時計ではないから。ましてや自分の時計でもありませんが。
それは、もう、時計ではないから。時を刻むのが時計だから。

その時計を持ち上げて、鼻で笑って投げ捨てたのは。
貴方の名前は、知っています、そして、貴方は強くていつも綺麗ですね…


マミー、さん…


海で、自由に泳げる、綺麗な魚…。
そこに俺達が行ける日まで、もうちょっと…
あと、少し…。

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