頭がくらくらして何も分からなくなる。
そんなこと始めてだった。
俺の身体をまさぐるように滑る手のひらの感触。
そのたびに駆け上がる痺れるような快感。
途切れ途切れの声を上げて、何も分からなくなって、
胸の奥が、息が、ずっとやけに苦しくて熱くて、
でもやめて欲しくなくて、もっと欲しくて。
「竜二…大丈夫か…?」
優しく俺に囁きかける声がある。
俺が首を振っても、押し寄せてくる快感から逃れさせようとはしない。
こんなわけの分からないコトは始めてだった。
なんもかんもワカラネェ。
クスリでぶっ飛んだわけでもねぇ。
酒が回ったせいなのか。
この答えは、俺が出していいんだろうか。
詰りそうな息を唇で塞がれると、卒倒しそうな感覚が脊髄を走った。
迷走…する…感覚。



施設を抜け出したのは、まだガキの頃だった。
男女分けられてて。俺はもちろん男ばっかりの集団で暮らしてた。
喧嘩で死にそうな目にあったり、殺しかけたり。
そのたびに、俺達を監視するヤツらの目が光る。
俺達は施設と言う名の檻で飼われてたんだ。
求めるものばかりで満たされない。
何も無い。ただあったのは意味深な笑顔だけ。
気色悪いなでまわすような笑顔だけ。
俺達は、いや、俺達なんて言いたくねぇこいつらと一緒にされたくねぇ。
俺は。そう、俺は、その笑顔の管轄下で、玩具として面倒を見られているだけなんだ。
遊びたいときだけ引っ張り出して。
いらなくなると片付けて。
面倒ならばほったらかし、頭にくれば投げ捨てられ。
俺は自分が人間なのかどうか疑った、何度も。
こいつらが人間なのかどうか疑った。
そしてある日、気がついた。
人間ってのをそもそも俺はしらねぇ。

逃げ出した夜は異常に暗かったのを覚えてる。
それからなんとか生きる事だけ。
それだけ追ってがむしゃらに。
何もかもが最悪に見えた。
人間なんてこの程度なのか。
人間について学ぼうとしている俺の目に入ってくるものは
どれも反吐が出そうなものばかりだった。
すべての目が俺を見ない。
俺は存在を否定され、しかも只ある物としても認識されなかった。
施設の外は、施設だった。

雨上がりの工場現場。そこで何日か過ごした。
何度かここを通っているが、この工事をしているのを見たことが無い。
工事期間の表示はとっくに過ぎ、どうやら停滞しているらしいことが分かっていた。
行き場所が無い。
生きる場所も無い。
放置され意味を無くしたこの土地と共に。
この世ってのは一体なんなんだ。なんのために人間がいるんだ。
俺は…一体…なんで生きてるんだ。
悔しいから、寂しいから生きる、ただそれに執着した。

俺はある日喧嘩をした。
邪魔だったから殴られた。邪魔だから殴り返した。
俺は知らなかった、教えてもらいもしなかった、
怖いものってのがなんなのか分からなかった。
だから俺が気絶させてしまった相手がヤバイ人間だなんて…わかるはずも無かった。
人形のように蹴りまわされる。
どこがどうイテェのかもう分からない。
目の前に飛んできた足を掴んで、引き摺り下ろし、コンクリートに頭を強打させてやる。
靴の踵が俺の上から落ちてきた。
それが何か認識できない。
すっと遠くなった意識を感じる。
何かが目覚める。
俺はもう止まれない…

気がつくと、どっかの椅子の上だった。
ちょっと固いソファ。
天井があるところで寝っ転がっているなんて、久しぶりだった。
身体を拘束されているらしかった。
もがいても、腕が元の位置に戻らない。
俺を覗きこむ男の顔。
じっと無表情に、俺を見ている。
「殺すぞ!テメェェ!!!」
ガキの啖呵なんか知るかといった風に、口の端を上げられる。
猛犬のように暴れる俺の鳩尾に、その男のパンチが一つ入った。
重い拳だった。
一瞬気が遠くなる。
むせる息に、意識が引き戻される。
「ウチの若いやつに目をつけられたなお前」
低い声。
俺の頭上から聞こえる。
カチャン。その男が何かをいじっていることに気づく。
俺の腕を伝う鎖の先。
それをひっきりなしに弄っている。
俺はどこに行っても飼い犬か。
俺の前に立っていたその男は、異常なまでにそこに存在していた。
その男が、俺を見ている。
はじめて、恐怖が走った。
殺されるかもしれない。
怖くて、泣きそうだった。
もう、どうでもイイ……誰か、助けて。誰か俺に居場所をくれ。
どうか俺を楽にしてくれ。
怖いよ、生きているのが怖いよ。
「死にたいか」
不意に、男がそう言った。
俺はそんな顔をしてたんだろうか。
虚の中のさらに盲点を突かれた俺は、その顔を見ることも出来なかった。
答える義務は無い。
頬を一つ殴られる。
口の中が切れて、血の味が広がる。
血の味が。
俺は、こんなつまんねえ所ででも生きていやがる。
腹が立つ。
俺は自由な野犬のまま死んでやりたい。
睨み付けた。これまでにない気力で。その男を射抜いてその向こうを睨み付けるように。
男が俺をじっと見る。
強い。と思った。俺なんかおよばねェ。俺の想像できない強さを持ってる。
「俺のところに来い。お前のその目が見ている先を知りたい。」

俺はその人のことを「さん付け」で呼んだ。
そう呼ぶのが適当だと思った。
その人は俺を風呂に入れ、飯を食わせてくれた。
俺が見えなかった「人間」についても教えてくれた。
そして俺がどんな顔をしていて、どんな風な生き物なのか教えてくれた。
俺はただ大人しくそれを聞いていた。
飼われているなんて、思わなかった。
向こうも、ただ俺を傍に存在させているだけ、それだけの事、と振舞っていた。
言葉じゃねぇ、その事実だけが、俺の足元に地盤を作ってくれた。
何が見える?たまにそう聞かれた。
そう言われると俺は「アンタが見える」としか言えなかった。
俺がそう言うと、困ったように笑った。
俺も少し笑った。
もっと笑えと言われて、下手な冗談を言われて、くすぐったくて笑った。
はじめて、生まれた気がした。



何度も繰り返し名前を呼ばれる。
遠くなった意識で、震える腕で、その肌を探す。
色んなモノが流れ込んでくる。快感と激情と声と悲しさと服従と。
そして死にたくなるくらいの優しさと。
後ろにねじ込まれても、貫かれたと言う感想しかなかった。
もっと侵されたい。何もかも流れ去ってしまうくらいの波に。
俺の身体を背中から突き上げながら、強い腕で胸を抱きしめる。
「こうして無いとお前はどっかいっちまいそうだ…」
そうなんだ。だからもっと強く抱いてください。俺がまた足元を見失わないように。
もっと求めてください。
俺をそこに認めて下さい。
アナタがいなけりゃ俺はここにいられない。
何度も悲鳴を上げる。
内壁を擦られてよがり狂う自分。
汗で崩れた髪が、目を隠すように落ちてくる。
何度もイかされた。イかせて貰った。
俺の中にも流し込まれた。
それがもうどういう事なのかも、
舌を出して犬のように息をつく俺には、理解できなかった。
ただ、求められるから。
求められたから、もっと求められたかったから。
もっと教えてください、空虚な俺に。
もっと生命とアンタとこの世界と人間がどうなっているのかを。
そして俺がどうなっているのかを。
俺がここにいる事を教えてください。頼むよ…



パァン。



軽い弾けるような音。
そのたった一つの音で、俺のすべてが壊れた。
また、何も無くなる。
この世界の意味も、全く無くなる。
俺の意味も無くなる。
コンクリートの壁に囲まれて、俺は笑っていた。
血溜まりの中で笑っていた。
動かない指を握り締めて。瞬きのできない眼を胸の痛みに乾燥させて。





俺の笑いがいつしか違うものへと変貌する。


俺の持つすべてを吐き出して。


アンタの命の意味は…俺が作るよ…兄貴ぃ……





もう一度…血溜まりの、中、へ。






FIN