……まいった。
コイツはどうも頑固なヤツらしい。
車体の下を腰をかがめて覗きこむ。
車体の下からこちらを覗きこむ目。
目が合って、しばし見つめあう。
ガンくれなら負けねぇ。来るか?やろうってのかコラ。
つい、と目をそらされる。
うしゃ、勝った。
いや、なに言ってんだ俺、たかが猫相手に…。
しかし勝った俺はそこから動けない。だってよ、敗者がうごかねぇんだもんよ。
参ったな。どこの猫だこりゃ。
「オイコラ。轢くぞ?」
俺がそう言っても、ちらりとこっちを見るだけ。
おまけにアクビ。俺をここまでナメるヤツってのは見た事がねぇ。
面倒になって、エンジンをかける。
重く響くようなエンジン音。
さすがに動いた。
そーそー、そのまま向こうへ…
行けってんだよ。
タイヤに寄り添ってグウタラしやがって!
全くなんなんだ、俺が待っていてやりゃあ。俺がだぞ、ここまで待ってんだぞ?
なのにテメェは一体なんなんだ!コケにするにも程がある!
轢く!決めたもう轢く。
絶対轢いてやる!
車に乗ろうとして、扉を開く。
下を覗きこむ。
はおっていたコートを脱いで、助手席に放り出す。
下をもう一度覗きこむ。
……
「おい」
……
轢くんじゃなかったんかよ、俺。
車が汚れっからな、そうそう、それは困る。別に俺が洗うわけじゃねぇけど。
……たしか、兄貴んちに猫がいたなぁ。
なんて久しぶりに思い出してみる。
兄貴んちはマンションで。そんでも動物オッケーで。
高いんだろうなぁと思ったんだよな、動物オッケーのマンションなんてよ。
あの頃はな。
大人しい猫だったんだよな。いつでも寝てた。
今考えると病気だったんかもしれねぇな。
兄貴より先に死んじまった。
……

皆、いなくなっちまうんだよな。

車の下を覗き込んで、そのまま這いつくばるような体勢を取る。
猫と目が合う。
こっちをじっと見ている。
でっけー目。丸くてでっけー目。
俺を見てる。俺も見てる。猫が腰を上げた。
俺と同じ目線で。
肩肘をついた俺に向かってのそのそと。
野良猫かな。こいつは。やせ細って、寒そうな身体。
捨て猫だったんかな。って、俺、何を浸ってんだよ。こいつらはこいつら、俺は俺。
イイじゃねぇかなんでも。
短くて細い音。声?俺の近くに寄ってきたそいつが放った音。
それと共に、柔らかい感触が頬に当たる。
「なんだよ、甘えたってなんもでねぇぞ」
返ってくる言葉なんかないと思いつつ、話しかける。
お?ここまで来たってことは、掴めばどけられんじゃねぇか。
そっと手を伸ばす。
俺が体を少し起こすと、それだけで後ずさる。
「こっち来いって」
…何を見ているのか分からない瞳。どこかで見た瞳。
「ったく、素直じゃねぇなぁ」
素直じゃないんだよな。
「腹減ってんだろ?なんかやるから来いって。」
誰かに言われたな…この言葉。

猫は一向に近づいてこない。
信用できないか、あーそーかいそーかい。
んじゃもういいよ、俺は行くから。
お前見捨てていっちゃうからな。誰も助けてくれねぇぞ。
誰も。

……一人で生きるってのは…寂しいんだよなぁ…

車の扉をもう一度あけて。
エンジンはそのまま。
助手席からコートを取り出して。羽織りなおす。
車の脇の植え込みにペタリと座り込んで、煙草を取り出す。
ライターの火がともる。その小さな炎に暖められて小さな風が吹く。
炎に照らされた指ってのは、橙色に染まってあったかそうに見えるよな。
煙草をくわえたまま、大きく伸びをする。
空を見上げると、目がちかちかする。
澄んだ冷たい空気。
その中でちらちらと揺れる光。
星ってヤツか。
空が高くなり、低くなる。
不意に飲みこまれそうになって、息を呑む。
兄貴は曇り空が好きだった。
低く垂れ込めた雲の下で生きてると、地に足がついてるって感じるんだとさ。
俺はなんか世界が狭くなったような気がしていやだったんだ。
兄貴の気持ちはわからなかった。

冷たい風。
すっと頬をなでられて、目を閉じる。

目をもう一度開いてみても。兄貴の好きだった空は見えなかった。

俺は違うところで生きてるんかな。
兄貴とは。
俺はこの巨大な力に逆らって生きてんのかな。
兄貴はどうだったんかな。
自分の力に比例して空を選ぶ。
俺は、出来るならこの無限の空を選びたい。
こんな事言ったら兄貴に、文句言われちまいそうだ。
理想が高いのはイイが、無謀と言う言葉は覚えとけや、とか言ってさ。

誰かのために生きてるわけじゃない。
俺のために生きてるんだ。

俺が寂しいと、楽しいと、気持ちイイと。思うから。


…みんな兄貴に貰ったもんだけどな。



不意に片膝の上にあったかくて柔らかい感触。
「なんだオメェ」
せっかくエンジンかけといてやったのに、やっぱ車の下は寒かったか。
俺の体温を吸って縮こまる小さな物体。
寂しくて楽しくて気持ちイイか?
それが俺にあるなら、ちょっとだけわけてやらぁ。


煙草の箱が潰れるまで、だけどな。





曇り空はアンタにやるよ、兄貴。






FIN